dadalizerの読書感想文

読んだ本の感想(誤謬アリ)を綴るブログ。オナニープレイ。

雨宮処凛 著:「女子」という呪い

なんか律儀に書籍名と著者の名前を記事のタイトルに持ってくるのってすごくつまらないなーと今更ながら思ったり。
しかしこんなブログでも読んでいる人がいるということを意識するようになると、多少なりとも気を遣うようになってしまうというのがワタクシ的にはすごくジレンマな部分だったりするのです。当初はただ思ったことを吐き出すだけのゲロリンオナニーブログでしかなかったので・・・。

金曜日に観てきた「犬ヶ島」の感想に先に着手しつつ、なんだかいまいちまとまらないので読書に逃げた結果、どうしてもこの本を読んでいて色々と思ったことがあったのでこちらを優先することにしたのですが、余計にまとまっていないような。
まあ書評じゃなく感想ではある(というエクスキューズ)ので、とっちらかっても和田のアキ子が歌うように笑って許してほしい

そんなわけで今回読んだ本は雨宮処凛さんの著した「「女子」という呪い」です。
この本を手にとった経緯は忘れてしまったのですが(ていうか、そもそも本を手にとった経緯とか必要なのかしら?)、この本自体は自分にとって価値のある一冊ではありました。
本に限らずわたしが何かに触れるときは、それが「新しい世界を見せてくれるか」どうかが価値の判断基準になっているので、好悪や世評などとは別に軸があったりする。だから嫌いなものであったりへっぽこなものであっても、それが自分の知らないものであれば価値のあるものになる。って、そんなこと誰でもそうかもしれないけど。

では、この本の何が私に「新しい世界を見せてくれ」たのかというと、それは本のタイトルにあるとおり社会に蔓延する「女子」の呪いだろう。とか書くと、なんだか自分の中でモヤモヤする部分があるのだけれど、とりあえずはそういうことにしておく。
雨宮処凛さんについてはまったく知らなかったのですが、どうもわたしが現在進行形で学んでいる分野で物書きをしているっぽい。というか、この本から察せられるこの人の経歴を考えると、この人自体もわたしの学んでいる領域にかなり関連してきていて、思いがけない拾い物をした気分になる。あるいはシンクロニシティ的というか。
また、中身をそこまで知らない状態でこの本を手にとった割に、日大タックル事件や安倍ゲート関連とも繋がってくる問題提起が図らずもこの本の中でされていて、そういう意味でもシンクロニシティ的ではありました。

さて、前置きが長くなりましたが本について書いていきましょう。
この本の構成としては大きく4部に分かれており、さらにいくつかの章立てがされています。

1:オッサン社会にもの申す
 紫式部の時代にもあった無知装いプレー問題とは?
 「男らしさ」という勘違い
 キレる女性議員、のんきな「ちょいワルジジ
 「男」と「女」を入れ替えてみる
 藤原紀香結婚会見の怪
 40代単身フリーランス(私)、入居審査に落ちる
 理想の結婚相手は「おしん」だとさ
 大震災で露呈した昭和のオッサン的価値観
 「ロボットジジイ」と非実在女性

2:女子たちのリアルな日常
 持つべきものは、看病し合える女友達
 「迷惑」マイレージを貯めて孤独死に備える
 アラフォー世代、おひとり女子のリアル
 「若い」って、面倒だった 愛と幸福とお金と身体、その他もろもろ
 女地獄における比較地獄
 必殺! 困った時のフランス人
 化粧する女、化粧する男

3:「呪い」とたたかう女たち
 AVで処女喪失したあの子の死
 メンヘラ双六を上がった女
 雨宮まみさんの訃報
 彼女がレズ風俗に行った理由
 若い「おじいさんとおばあさん」のような関係
 セーラー服歌人・鳥居との出会い

4:「女子」という呪いを解く方法
 世界の「女子」も呪いと闘っている

あとがき(?):なんだ、みんなおかしいと思ってたんだ


以上、上記4部(第4部は分量的に少なめ)にわかれているんですが、著者の経験談がすべての章に通底していて、あまり章ごとの区切りは感じられない作りになっていました。だからどうってこともないんですけど。
ちなみに、まえがき的に「すべての生きづらい女子たちへ」というのが本書の書き下ろしとして追加されています。どうやらコラムなんかを一冊にまとめた本らしいです。
あとは実際にあった事件や事例から男女を相対化、著者の書くところのミラーリングを行うことでいかに現代日本のシステムが病理に蝕まれているかということを、様々なところからデータや言葉を引用しつつも、主にエモーショナルに綴っています。なので、「そういう感情的なところが鼻につく」というタイプの人も一定数はいるだろうなぁ、という文体ではあるかもです。まあ、そうでなくともこの手のテーマは批判(というか、やっかみ?)されがちですからね。主に男性から。

ページとしては220くらいで文字も硬い文章でもないのでかなり読みやすいです。ただ、この本の前に読んでいた本が380ページで文字もやや小さめだったので、相対的にザクザク読み進められたというのもあるやも。

第1部を通してで述べられているのは、いかにこの社会の中に男性優位のシステム、あるいはミソジニーが根付いているかということ。セックスレス・介護・家事育児(から生じるイクメンという言葉が本質的に有している女性蔑視の視線)などのワードをキーにしていたり、勝手に値踏みしていたり・・・ともかく女子がいかに男性の振る舞いに憤りを感じているかが痛痒とともに伝わってくる。

この本の中では著者の体験や著者の友人知人などの身に起こったことなどを具体例にしているのですが、「男らしさ」という勘違いの章の「多くの女子を黙らせる一言」の項目で引き合いに出される、避妊しない自慢男の話はドン引き。
少なくとも、わたしの男友達の中で彼女から生理不順を聞かされた人たちはみんな不安に駆られていたぞ。まあ、不安に駆られるくらいならゴムつけろという話ではあるのですが、裏を返せばそれだけのおおごとであることを理解しているということでもあるのだと、この章の避妊しない自慢男の話やたまにニュースになる赤子を捨てた若いカップルの話などを見るにつけて思う。
ほかにも「GG」なる雑誌のことや、日本語のわからないアジア系の女性にトイレで妊娠検査薬の見方を尋ねられた話、72人の処女(イスラムだしソロモン72柱とかかってたりするのだろうか)の話とか、フェミニズムという視点を除いても純粋に面白い(とか書くと不謹慎だろうか)話が多い。

しかし、いくつか説得力に欠ける部分もある。たとえば「40代単身フリーランス~」の部分。まあ章のタイトルどおりのことが起こるわけですが、これは女性だからというよりもフリーランスだからという部分が強いのではないだろうか。もちろん、その裏には女性の賃金の低さという問題をはらんでいるのも事実ですが、ここで語られるのは女性云々というよりは主に貧困問題についてなので、あまり女子であることを押し出すのは逆に卑しい気はする。分けて考えろ、ということではなく、強調する部分を間違えると合意の捏造が生じてしまうから。

また、「大震災で露呈した~」の章について。下着のことに関しては「あぁーありそうだな」と頷いたり、衝立や女性が着替える歳の仕切りなどに関して、わたしはむしろ幼子を除いて完全に男女別になっているくらいだと思っていたので、そうでないことがむしろ驚きだった。確かに、避難民が体育館などで待機している映像はかなりそんな感じだったし。そのへんは特に問題なかったのだけれど、避難所で女性が炊事を担当させられた女性たちの点で、一つ疑問に思うことがあった。80ページで「1日3食を100人分つくり続け、リーダーに「疲れた」といったら「大変だな、それでは、かっぱえびせんですませよう」と言われた女性もいた。男性が交代するという発想がなかったのだ」という部分。
これ、女性たちが炊事をしている間は男性たちが何か外に出て何らかの土木作業などをしているのわけではないのだろうか。わたしは、てっきりそこで男女の肉体性によって仕事を振り分けているだけで、炊事以外の仕事を男性らがやっているのだと思っていたのだけど、そのへんは特に何も書かれていなかった。だから、少しバイアスが働いていないかという疑念が残る。

それと、1章「紫式部の~」では、女性側が無知を装うことで男性を立てて気を良くさせることを日本独自の女子の生きづらとして、批判している。その前に「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」という本を引用し、女性にいくつもの要求をしておきながら見えない枕詞として「男の後ろでな」がある(意訳)ことを指摘している。
社会に蔓延るその暗黙の了解には首肯するのですが、一つだけ誤りがある。まあ、誤りというよりは単に射程の問題でもあるのですが、ここには「外国はこんなに素晴らしいのに日本はなんてダメなんだ!」という偏見に立脚する前提があるようにも思える。
著者はこの暗黙の了解を日本独自のものとして扱っているのだけれど、実を言うと59年にゴフマンがアメリカで行ったドラマツルギー役割期待の調査において、アメリカの女子大生がデートの相手になりそうな男子学生を前にするとき、彼女らが持つ本来の知性・技能・意思をあえて低く見せていたという結果を報告している。
つまるところ、これは現代になって浮き彫りになった問題でもなければ日本独自の問題でもないんですよね。この調査自体はフェミニズム的な視点から見たわけではないのですが、しかし半世紀前に指摘されていたことを未だに改善できていない、ようやく問題提起できたというところなのがフェミ的に後進国な日本らしいというか。そういう意味では著者の書きかたでも明確な誤謬とはいえないのですが・・・。高度経済成長とか、あの辺のことも大きく絡んできてはいるのでしょうし、社会システム論とか引き合いに出すとわたしには手に負えなくなるのでここまでにしておきます。

それともう一つ、バカというか無知を装うという技術は、実は男性も行っていることであり、それを免罪符にしているということもある。という視点が含まれていたらなお良かったかなーと思う。とかいいつつ、これはどちらかというと人種の問題な上に英語の本なのでまともに読んだことすらないのだけど、確かwhite ignoranceだったっけか。


第2部と第3部は、第1部以上に個人的というか局所的な体験記だったり思いの色合いが強い。
「持つべきものは~」なんて性別関係なく、至極個人性な問題でしかないといえばそうだし。著者の言葉に従えば、この章はミラーリングしてもなんら問題はない。少なくとも字面上は。なので、女子の生きづらさというよりは厄介な友人問題でしかないので。ただ、著者はフェミニズムだけでなく社会福祉関連の問題も取り扱っているみたいなので、その流れから書いたのだろう。実際、そのあとの「「迷惑マイレージ」を~」の章では孤独死の問題と結びつけているし。
あとはまあ、過去の体験や回想や死者への思い出といった感じだろうか。風俗やAVなどの女児特有の問題を扱っていたり、東京というアーバンな街に対するコンプレックスとか、この辺は90年代当時を生きていた雨宮処凛さんの赤裸々な思いが曝されている。
こわれ者の祭典」とか面白そうなイベントの話なんかもあったし、ともかく私の知らない世界についてかなりたくさんあって、面白くはあった。
あと日本人の女性への若さ信仰とフランス人との違いとかね。
生物学的に見れば自分の情報を残す=子孫を残すことが知性存在(笑)としての人間である前に、生物としてのヒトの欲求ではあるはずなので、そういう意味では出産におけるリスクを減らせる「若さ」というのは重要なファクターであるとは思う。
ただ、この本で記される日本人男性の若さ信仰というのは、顔とかそういう表面的な若さへの要請であって、妊娠がどうとかという評価軸ではなさそうではある。
うーん、でもわたしは「正しく歳を重ねる」ことは素晴らしいことだと思うけど、若作りという行為も人間的で愛しいと思うけどね。うん、個人としじゃなくて人間のごうつくばりって意味で。書いてて思ったのだけど、折原臨也みたいで気持ち悪いなこの書き方。

第4部は韓国のフェミニズム運動やMeTooを用いて家父長制の社会体制への反旗を掲げ、世の女子を鼓舞するような文言が並ぶ。
最近は福祉関係で韓国や中国の話も出てくるし、特亜的にはとなりの国々の運動はやはり無視できないのだろう。

とりあえず最後まで読んで思ったのは、エロ漫画みたいなことをやるオジサンがそこらじゅうに溢れているということ。笑い事じゃないんですけど、笑ってしまうほどチンコに支配されているおじさんの話が何度かでてくるので。

読み物としては面白いし、世の女子の現状を知るための一冊としては手に取りやすいことは間違いない。反面、体系的に何かを知りたいといった重めの本ではないので、そこはまあ個人の裁量でしょうな。まあこのタイトルで体系的もクソもないのはわかることですが。


最後に個人的に「オジサン」について思うことがあったので書く。
ここに来ると伊藤の先見の明というか、表現者としての彼の筆致の饒舌さを振り返って再評価したくなる。雨宮処凛氏はこの本の中でオジサン=団塊世代の男という含蓄で書いている。それは間違いではないのだけれど、そこには物理的なちんこの有無で線引きしている節がある。最後の章で「権力を握る者」こそがハラスメント(ていうか普通に性犯罪なんだけど)を行うという旨の記述があるというのに、最終的に「オジサン」でまとめてしまうのは、まあ伊藤の筆力と比べるというのが酷であるとはわかっていても、ちょっと思ったことなので書いておこうと思う。
伊藤の述べる「オジサン」とは、その精神性を指している。以下引用。
認めたくないことだが、世界はおっさんによって動いているのだった。
何をいまさら、と言われるだろう。あるいは、女性だっているじゃないか、と言われるかもしれない。国会中継を3秒見ればそれくらいのことはわかりそうなもんだ。「生む機械」「健全な」発言の柳沢さん、あれについて女性の権利を云々、とか言葉尻捕らえてこのマスゴミ云々、とか右左いろいろ言い合ってはいるけれど、皆まずなによりあれがきわめて美しくない、という単純な事実を忘れているのではあるまいか。あれはきわめておっさん的発言であり、おっさん的思考なのだ。世の中には「おっさん」というきわめて美しくない、存在そのものが無様でいかんともしがたい生物が存在しているのであり、厄介なことに政治家になる人間というのは、多かれ少なかれおっさんを属性として持っている人間なのである。私に言わせれば、政治家になる女性もすべからくおっさんである。おばはん、ではない。あくまでおっさんなのである
。」

いやまあ、豊田議員のくだりを読むに、男性もといオジサンの精神性を内面化してしまったということを書いているので、単に陰茎の有無で語っているわけではもちろんないのですが、全体としては物理存在としてのオジサン批判に読めてしまう気がする。まー最近の神経科学分野でも肉体の重要性が説かれているので、肉体先行で語ること自体はむしろ現代的なのかもしれませんが。

そもそも、伊藤が指摘するまでもなくオッサン(本書ではオジサン)という存在が基本的には揶揄の言葉として日常的に使われているように、オジサンというのは醜悪な生き物である。思うに、ダンディとオジサンのボーダーというのは見た目以上にそういう精神性の部分が大きいのではないか。
日常の中にオッサンの生態を批判的に捉える言葉がるにもかかわらず、この世の中でパワーを握っているのはそのオッサンたちであるということの矛盾。女子に綺麗であることを求めるのであれば、男性諸兄はオジサンであることを恥ずべきではないだろうか。「俺、オッサンだから」と自虐的に口にしておきながらその実はオッサンであることをすでに分離不可能なまでに内面化しているがためにまったく気にかけていない。それが、このオッサンたちが優位な社会を作っているのではなかろうか。

以上は、本書に関する直接的な感想です。













P.S.
ここからはやっかみとか、直接この本に関すること以外で思ったことなので、読み飛ばしてもよかんべな文章。読み手への配慮は通常より皆無で、ほぼ内省と自問自答なので読む必要はないよ、という文章。

「付き合った男性が~」というワードを綴っている時点で、エクスキューズ的に「まぁ、それまでもまったくモテてなどいなかったのだが」とか書くのは卑怯千万だろう。というか、付き合ったことがある、という時点で「モテ」という言葉とかそのあとに否定の語句をつけるのは、真に恋人に類する存在ができたことのない憐憫者たちへの侮辱である。
自己卑下というのは、ある意味で「自分がこの世の最下層である」という驕りに基づいていることを私を含めた自己評価の低い人間はゆめゆめ忘れてはならないのである。
いや別に不幸自慢とかではなく、「上には上がある」という熟語を用いるのと同じように「下には下がいる」という言葉を使うべきなのではないかと思ふ。


それと、この本の中で「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」という漫画について触れられるのですが、実は私はこの漫画が嫌いだ。いや、嫌いとまではいかないかもしれないが、少なくとも苦手だ。ていうか、この手の漫画が。
この手の漫画、というのは、要するに「ありのままの姿見せるのよー(レリゴー)」しているだけの漫画だ。エッセイと銘打っている漫画であれば大丈夫(荒川弘のとか)なんだけれど、「さびしすぎて~」とかは苦手だ。多分、これがレポじゃなくてルポだったら多少は許せたのだろうけど、しかしそれがなぜなのか自分でもわからない。いや、一人称形式な時点でルポっちゃだめか。わからん。
これは前からある疑問なので、折角の機会なのでわからないなりに考えてみようと思う。
なぜ、私はこの手の「レリゴー」系が嫌いなのか。
考察した一つの考えとしては、それらの漫画は「漫画」という表現手法とは別の位相で評価されているからというもの。絵の上手さや下手さ、コマ割りとか、そういう「漫画としてどうこう」という以前の段階で「私は苦しいのです」という叫びをあげることで免罪符として機能し、すでに加点されてしまっているように思える。つまり、漫画で表現しているのにその手の漫画は漫画という表現とは別の部分で強固な評価軸があるのではないか。

映画界、特にアメリカのインディーズではマンブルコアという低予算ジャンルが一つ確立しているのだけど、こちらはむしろ低予算であるがゆえに工夫を凝らさなければならないために映画という表現において評価されているのとは対照的だ。
そこに何か溝のようなものを感じる。まあ、漫画は手軽ではありますからね、読む方は。だから、簡単に感動することに思考停止できるのかもしれない。感動ポルノ的、というか。
あるいは「切実に叫びつつ、結局は叫んだだけでフォークソングにしかなり得なかった」という、ある人の言葉をそのまま当てはめることもできるのかもしれない。

あとはまあ、自分の恥部を晒していることの下品さのようなものだろうか。つまり、これが漫画として描かれ市場に乗り経済システムの中に消費されることは、「「女子」という呪い」の中で語られたAVで処女喪失の彼女がロフトプラスワンで自分の身を切り売りしていたのと本質的に同じことのように思えるのだ。そこに主体か客体かの違いはあるのかもしれないけれど、システムに取り込まれている時点で客体だろうし、そう考えるとやはり同じでは・・・。
そこまでしてでも自分の苦しみを表現したい!そうしないと死んでしまう! それ自体はいい。だけど、わたしは自分の弱さや辛さをさらけ出すことに抵抗を感じている。
だってそれって、庇護欲を掻き立てる、いわば自分が不塾で何もできない存在であることを示しているだけじゃない。その生存戦略が成立してしまうことが気に入らないのだ。
学生時代、友人に「そういうキャラ」だからといってすべてを受け入れてもらえる人がいた。彼にはそこまで能力があったわけではない。ただ、何もしなくても人に好かれた。
けれどわたしは、道化になることでしか自分を表現する術を知らなくて、ただ弱いだけでいるだけでも受け入れられる彼が少し妬ましかった。自然とあだ名で呼ばれる彼が羨ましかった。わたしは苗字で呼ばれていた。なぜだろう。

わたしは、そんな恥ずかしいことはできない。そういう生き方を否定はしないし排他することもないけれど、絶対的に肯定できないし蔑んではいるし大嫌いだ。

どうして弱いことをさらけ出すだけで生存できてしまう人がいるのだろう。こっちは弱さを必死で取り繕って、ようやく生存できるというのに。多分、そういった感覚に近い。
しかし、そうなるとラップやブラックカルチャーはどうか。多分、それはマンブルコアと同じで、叫びを芸術の域にまで昇華しているからこの限りではないのだろう。

ただ叫ぶだけで評価されるというのなら、叫ぶにも値しない程度の瑣末な弱さの行き場はどこにあるというのか。


さらに言えば、さらけ出すことが是とされるこの寛容な社会の流れにも薄ら寒さを感じている。ソーシャル・インクルージョンはあくまで現実とし機能すればいいのであって、大衆芸術そのものを飲み込もうとしてはいないか。
世界はいつからそんなに優しくなったのだろうか。個人の体験を貨幣経済の市場に乗せて売買していることを優しさと捉えるのは難しいのだけど、苦しいことを苦しいというだけで価値を見出されるというのはやはり優しさというべきだろう。
「嫌なことは嫌だという」「ダメなものはダメだという」「正しくないものには正しくないと指摘する」。それは、社会レベルでは必要なことだと理解している。けれど、そんな潔癖でやさしい世界に不満を抱く自分もいる。
本来なら社会の流れに逆らうべきものが社会に包摂されていく気持ち悪さに似ている。ディストピアっぽいのだ。

ただ、不思議となぜ活字はこうならない。文字に比べて絵は演技性が高いからかもしれない。よくわからない、自分でも何を書いているのか。

なんてを考えていると、「シン・ゴジラ」で東京が火の海になっていく様子に感動のあまり涙したのも頷ける。怪獣(に限らないけど)が好きなのは、善悪とか倫理とか正義とか、そういうものを超越した絶対的な存在がそういうのを蹂躙してくれるからなのかもしれない。



それと、この本を読んでいて思ったのは、やっぱり自分には「壊れたい願望」があるのだということ。しかし、わたしには安心安全な設計のほどこされたブレーキが正常に機能しているがために壊れることができない。ていうか、普通に考えれば壊れることは良くないことだ。それこそ、この本に出てくる名も無き女子たちの中には壊れたまま死んでいってしまった人の話もあるわけで、本当に壊れかけた・壊れた人たちの前ではそんなことは口にできない。けれど、壊れることでその立場を得られるのであれば、その能力をその才能を獲得できるのであれば、わたしは壊れてみたい、と思う。
再生することができた雨宮処凛や鳥居やメンヘラ双六を上がった者たちのように。

なんて、ないものねだりをしてみるのだった。