dadalizerの読書感想文

読んだ本の感想(誤謬アリ)を綴るブログ。オナニープレイ。

遠藤周作:沈黙

 スコセッシの映画を観た直後に文庫版を買って九月頭に読み始めたから、購入から読書開始までに半年以上の間隔があったということになる。いや、他にも本を読んでいて後回しにしていたからなんですがね。映画を見たテンションで衝動買いしてしまうことはよくあるんですが、買ったまま放置しておくことも多くて困ったものだ。
 
 さて、それでは読書感想をば。17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説であるこの「沈黙」ですが、まず普通に読み物として面白い。解説で佐伯彰一が言及しているとおり、構成の妙もあると思う。まえがきとして15ページに渡って小説の舞台となる時代の現状が、さも実際にあった歴史の概説のように語られ(実際、史実に基づいている部分も多々あるだろう)、主人公たるロドリゴ司祭の書簡として彼の主観から100ページ以上語られ、そこからはロドリゴをフィルターとして客観的に(半客観・半主観)世界が綴られていく。さながらザック・スナイダーの「ウォッチメン」のようですらある(こっちは映画だけど)。これはなかなか大胆な構成ではるのだけれど、「十頁だけ読んで~」の著者だけあって冒頭からなぜかぐいぐいと持っていきます。それもこれも、冒頭の一段落にあるだろう。以下に抜粋するぞよ。
ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルイエズス会が日本に派遣していたクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである。この教父は日本にいること二十数年、地区長(スペリオ)という最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。』ここからさらに『稀にみる神学的才能に恵まれ~』と続く。
 一文目から何かただならぬことが起こったことが伝わってくる。マンガ的に言えば、主人公の属する組織のトップクラスの人物が敵に屈服させられたということが告げられるわけである。個人的には「D.Gray-man」の元帥(名前忘れた)の一人が殺されたと報告されたあたりの衝撃に近い。あっちは序盤とはいえすでに物語がある程度進んだ段階だった(まあ週刊連載だし映画や小説のようにはいかんでしょう)が、こっちはそれを冒頭一発目に持ってくるのである。
 そして構成としてはその彼を救いに行く話であるわけだ。そりゃワクワクするでしょう。映画を先に観ていたわたしでさえもワクワクしましたもの。それを文章で魅せてくれるというのが、やはり読み物の面白いところだろう。
 とはいえ、これは小手先のギミックに過ぎない。この小説の真に面白い部分は、その内容そのもの、神の存在への問いかけ(途中までではあるけれど)にある。それを「沈黙」と題するセンスも秀逸(といってもこれは編集側の以降で筆者は「ひなたの匂い」としようとしていたらしいですが)。それをカトリックであり聖書的宗教的知識をも持ち合わせている遠藤周作が、司祭を主人公に据えてメタファーなどというのもなしに真正面から描いたところがまた、ほかの類似テーマを持つ作品とは異なるところだろう。
 私自身は無神論者で宗教とはまったく無縁の人生を歩んできた標準的日本人ではあるものの、「神がいたらいいなぁ」と思うロマンチストでもある。もちろんカトリックだとかプロテスタントだとかもよくわかっていない。それでもこの「沈黙」をパンピーのわたしが面白いと思えるのは、前述のとおり「神」というものの存在を人間の営みの中から問いかけること(というかその人間の営みの描写そのもの)が痛烈に胸に響いてくるからだ。
 なんですが、「神はいるのかいないのか」というのはロドリゴが本作を通じて自問自答することではあるけれど、実は彼が「転ぶ」あたりから問題は転化(というか昇華)しているんじゃなかろうか。
 というのも、ロドリゴがまさに「転ぶ」その瞬間に彼は「あの人」の顔を思い浮かべますし、「いるいない」ではなく「どう在るのか」という問いに焦点が当てられているように見える。
 随所に描かれるロドリゴの内面が人間が普遍的に持っている部分であるため、人種を問わず彼の中に埋没していってしまう。自己欺瞞や自己正当化などなど、個人的には179p・219p・223p・225p・240p・256p〜のあたりはかなり気に入っている。ほかにも172pの「司祭が」論破した気になって優越感にひたるとこは、どうしようもなく人間的だったりして身につまされる。
 一本筋の話で、ともすれば単調であるにもかかわらずぐいぐい引きつけてくるのはひとえに彼の実力であろうし、スコセッシもそれは同様だろう。
 
 スコセッシの、小説にはないあのラストの意味をもう一度考えてみる。

 あくまで感想ではありんすが、読み違えている部分も結構ありそうなんだなぁ・・・