dadalizerの読書感想文

読んだ本の感想(誤謬アリ)を綴るブログ。オナニープレイ。

ちょっともやもやする

 ずいぶんと前に買っておきながら積んでいた「伊藤計劃トリビュート(正確にはトリビュート2)」にようやく手を付けた。
 手を付けたっつってもいくつかある短編の中でもとりわけ短いのを一つ読んだだけなんですが、その一つに関してちょーっともやもやしたものがあったので感想と称して愚痴りたいと思う。
 で、読んだのがぼくのりりっくのぼうよみという弱冠18歳のラッパーが書いたらしい「guilty」という短編。
 うん、まあ、別に文章の破綻やいわゆるラノベ的な文章表現などもない(冒頭とか、ちょっと昔の自分ぽい書き方で恥ずかしい気にはなったのだけれど)ので普通に読めるのですが、ぶっちゃけそれだけ。
 まあページ数がページ数だけにそこまで長編にできなかったのだろうし(これに関しては本人の力量なのか出版側の要請なのか不明なのでおいておきますが)本職ではないというのは重々承知の上で一読者から言わせてもらうと「なんでこれを伊藤計劃のトリビュートに載せた?」と思うわけです。
 いーよ、わかった。この際、作品の質は置いておこうか(え?)。今時機械が支配していた(しかもかなり曖昧)とか、そんな程度の時間経過じゃ文明が断絶するわけねーからとか、そういのは些事だ。少なくともこの作品に関しては。だってこの「guilty」は多分、その執筆の発端からして質的なものより「ぼくのりりっくのぼうよみ」のエゴによる「実験」としての側面が強いはずだから。ていうか、質として語るならはっきり言って気になる部分が多すぎますからね、これ。短編だと普通はそういうバランスをうまくとるものですが、それができていないし訴えたいことも共感できなくもないけれど、それは考えに考えた末にアウトプットしたというよりも漠然とした「あーこんな感じだといやよねー」みたいな底の浅さを感じるのです。質云々以前に、執筆することへのエネルギー(それが善悪とか正負にかかわらず)がないように思えるのだ。
 邪推するなら、持ってこられた企画に「面白そうだしやってみようかな」という程度なのだと思う。それ自体はまあ、わたしに咎めることはできない。だって彼にしてみればそ仕事の一つとしてやっているだけだろうし、新しいことをやってみることができるという可能性があるなら自分も企画に乗ってみるだろうから。
 けれど「伊藤計劃トリビュート」という一冊に載せるには、この作品の中にも作者の中にも、あまりに伊藤計劃が存在していない。忖度してやれば作品の中から伊藤計劃的な何かを見出すことはできるかもしれないけれど、その忖度はもはや概念を拡大解釈して広義に敷衍しているようなものなので、そこまでいくと万人が持つものになってしまう。それは、伊藤計劃とは違うものだろう。その先の思考とディティールにこそ彼の神髄がるのだから。
 だってね、ほかの作家が作品の後の短いあとがき(のようなもの)の中で多かれ少なかれ伊藤計劃に言及し、彼の紡いだ物語がどうのように各作家の中に息づいているのか、敬意を表している。だというのに、この「ぼくのりりっくのぼうよみ」の中には伊藤計劃が介在していない。
 だってこの人、あとがきのなかで自分が作った曲の宣伝してるんだもの。伊藤計劃のいの字もでないんだもの。ほかの作家だって名前こそ出さないものの、そこには伊藤計劃に対する思いがある。なのにこの「ぼくのりりっくのぼうよみ」にはそれがない。伊藤計劃トリビュートにもかかわらず。
 興味本位で最初にこれを読むんじゃなかった。この一作品が入ってしまうだけで、この書籍を編纂した人たちの中に少なからず「妥協」と「打算」が入ってしまったことが分かってしまったから。
 いやね、伊藤計劃記録の単行本と文庫本でいくつも被ってるものがあるとか、それなら一冊にまとめられただろうとか言いたいことはあるんだけれど、それはまだいい。いや、本当はこっちにこそ怒りを抱くべきなのだろうけれど、得るものがあったからまだいい。
 けれど、こっちはだめだ。ぼくのりりっくのぼうよみの中には伊藤計劃を語っていない。彼が望んだことを、彼への賛辞の中で、この青年は足蹴にしたのだ。多分、悪意なく。
 これがわたしの的外れな感想で、作品から読み取れなかっただけだという可能性だってなくもない。けれど、いくら自分が読書に対して下手な横好きだからといって、この慇懃無礼さを見誤ることはないと信じたい。伊藤計劃の紡いだ物語が大好きな自分としては。 

 別に大人の事情なんてものをいまさらどうのこうの言ったところで、何がどうなるわけでもない。けれど、それによって伊藤計劃を好んでいる一読者が憤懣やるかたない思いを抱いたということをこのネットに残しておくことには、少なくともわたしにとっては意味があると思う。