dadalizerの読書感想文

読んだ本の感想(誤謬アリ)を綴るブログ。オナニープレイ。

「綴る」に落ちる(fall in spelling ?)

 今になって読んだ本の感想を書いておこう思い立ったのは何故だろう。自分でもよくわかってはいないのだが、ある人物の影響があることはまず間違いないのだろう。死してなお彼の播種した自分の中に萌芽が芽吹いたことは否定しようのない事実であるのだから。できることなら、生きている間に彼との接点を持ちたかったものだが、わたしがこうして彼を語ることがせめてもの手向けにもなるだろうから、綴ることで彼の望みに少しでも貢献できればいい。まあ、ついでだけれど。

 映画の感想を書き残しておこうと思ったのも、同じ理由だと思う。彼は徹底してエゴのために世界を変えようと言葉を綴った。その純粋さに感化されたのだ。もちろん自分がここに言葉を綴る理由は彼とは違う。彼が外に向かって開かれているのとはむしろ真逆と言っても差し支えないかもしれない。いや、それがたとえ徹底的に自己言及的であったとしても、こうして開かれた場に放擲した時点で否応なく世界と擦れあってしまうのだろう。人はたとえ死んだとしても、自分と世界との摩擦係数をゼロにすることはできないのだから。

 さて、前置きが長くなってしまったが、テーマそのものは単純だ。ブログタイトル通り、読んだ本の感想を書き留めるだけ。小中学生なら夏休みの宿題で誰しもがやったことのあることだ。それを今、再びやろうと思う。

 前述したとおり、故人の遺志を継ぐ(なんて書くと過言も過言なのだが)ことは理由の一つではあるけれど、別の理由もある。

 映画の方はあくまで情動や気づきを言語化することそのものがブログにしたためる理由でもあったのだが、読書感想は言語メディアを言語にするという作業であって、そこにメディア的パラダイムの変換という楽しさは映画の方に比べると薄い。だからというわけじゃないが、読書感想文を書くと数行前に書いておきながら、実のところは感想というより情報整理に近いものになると思う。

  だって本を読むって、2・3時間で終わらないでしょう。そりゃものによりますけんど、基本的には小説であれそれ以外の書籍であれ、一読しただけじゃ圧倒的に情報整理にかける労力が視覚メディアとは違うわけで、それを自分の中に落とし込み知性の足しにするには読書感想文にでもしないと無理なわけです。

 読書感想文というのは、はっきり言って弁明のようなものなのです。評論なんて高尚で面倒なことをするにはあまりに自分は足りないし、誰かの為に整理整頓した情報として発信するには自分は内的関心にとらわれている。だから、小学生のざっくばらんで自由闊達な文体をも許す読書感想文という体裁を取ることにした。

 

そんなわけで、次回の記事から感想文をウェブに放流してやろうと思う。

例のごとく、見直しはしないと思うが。