dadalizerの読書感想文

読んだ本の感想(誤謬アリ)を綴るブログ。オナニープレイ。

アナ・マトロニック著・片山美佳子訳:ロボットの歴史を作ったロボット100

 4時間ぶっ通しで1冊の書籍を読み進めることができたのは本当に久しぶり・・・どころか、もしかすると初めてかもしれない。漫画を徹夜で読んだりしたことはあるけど、1冊というカウントはできないし、4時間の読書時間に耐えうる長さの1冊の漫画というのもそうあるまい。
 もっとも、読書時間に関しては単に「読むのが遅い」だけとか陽のあたる場所に移動したり姿勢を変えたりトイレ行ったり、本の情報をメモしたりとか、純粋に「読む」という行為から逸脱した行為が多かったということもあるのだけれど。しかし、そういうことを考えると一体どこまでが「読書体験」として勘定していいのかがわからなくなってくるような気もする。

前置きはこの辺にしておいて、今回読んだのは「ロボットの歴史を作ったロボット100」という本なんですな。本といっても発行がナショジオ「グラフィック」ですから半分以上を画像が占めているわけですがね。
これがどんな本かというと、本のタイトルどおりなんです。執筆者のアナさんが彼女個人の独断と偏見とロボットフリーク的な常識と歴史的な背景から100種類(実際はそれ以上ですが)のロボットを選んで紹介していく、という本でござい。
アマゾンの商品説明がかなり詳しかったのでそちらを引用させてもらいましょう。ちなみに、アマゾンのサイトでは中身がどういうふうに構成されているのかわかる商品内のページのサンプルがあるので、それを参照するとイメージがつきやすいかも。

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内容紹介

懐かしのロボットから、最新のロボットまで!
人類の友として、敵として、助手として、あの活躍にわくわくしたロボットが勢揃い。

ロボットを偏愛する著者が、古今東西のロボットからベスト100を紹介。ギリシャ神話から鉄腕アトム、実在する人物の人格を移植する試みのBINA48まで。
C-3POベイマックス、チャペックのロボット、アシモフ作品、ターミネーター草薙素子、データ、オートマトンAIBO、ビッグドッグ───。

かつて皆が胸を熱くしたロボットが活躍する物語。
夢物語から現実へと浸食してきたロボットについて、神話の時代から現在まで、数千年におよぶタイムラインからロボットのベスト100を選出。

前半ではギリシャ神話やSF小説、テレビドラマや映画などのフィクションに登場するロボットを紹介。
後半では、機械仕掛けの時計から、死後も生き続ける人格を完全に移植することを目指したロボットまで、科学者たちの挑戦と世界の現状を紹介する。

【目次】
◆はじめに
◆空想のロボットたち
・召使い、相棒、助っ人
・暴走する殺人マシンと人類支配をもくろむファシスト・マシン
・心を持つロボット
・兵器としてのアンドロイドとガイノイド
・自意識を持つロボット
・サイボーグ
◆現実のロボットたち
・初期のプロトタイプ
・未来が来た!
◆コラム
・アートとファッション
・電子ゲームとコミック
・音楽の世界のロボット
・ロボットが集まるイベント
・理論とトランスヒューマニズム

【著者紹介】
アナ・マトロニック
ミュージシャン、映像アーティスト、ラジオパーソナリティ。バンド「シザー・シスターズ」のボーカル。アルバムはオーストラリア、オーストリア、ドイツ、アイルランドスウェーデンでトップ10入り。
ロボットを愛するあまり、右腕にロボット回路のタトゥーを入れ、ロボットにインスパイアされたステージネームを名乗る。BBCラジオ2のクリスマス特番でロボットについて語る番組を担当した。日本ではスカパー! が2015年末に「アートナイト:アナ・マトロニック」を放送した。夫のセス・カービーとネコのイジーとともに米国ニューヨーク、ブルックリンで暮らす。

出版社からのコメント

ロボットの登場する作品は、テレビ、映画、コミック、小説と、あまたあります。きっとみなさんにも、すぐに名前が浮かぶ、お気に入りのロボットがあるのではないでしょうか。
著者がおそらく世界一有名なロボットのコンビだと書いているC-3POR2-D2から本書はスタートします。「機械仕掛けで動くもの」をいかに昔から人が夢想してきたか、夢想が現実味をおびたときどのようなストーリーが描かれたのか。
収録されている作品はほぼ日本でも紹介されたものです。日本からは鉄腕アトム攻殻機動隊草薙素子などが紹介されています。懐かしいロボット、愛されるロボット、危険なロボットなど、個性豊かなロボットの世界をご覧ください。


とまあ、こんな感じ。
私自身はロボット好きですが、彼女のように世界中のありとあらゆるロボットの情報を蒐集しているわけではなかったりする。この本を手にとったのは、ネットサーフィンしてリンクをジャンプしまくってた先のサイトで紹介記事があって軽く興味を持ったからという程度だし、この本以上に読みたいのがいくつもあったからしばらくスルーしていたんですが、1000円割引のクーポンがたまたま発行されたのでそれを使って購入。
これ、おそらく原語版が出たのが2015年前後だと思うんですが、邦訳版が出たのが2017年の頭だったということで、結構なラグがあるわけですね。なので、サイボーグの章や実際にあるロボットを紹介する章でやや物足りなさがあったりはする。
どうでもいいことですが、2018年の4月に新品で買ったんですけど、わたしの手元に届いたのが第1版の1刷だったんですよね。これ、もしかしてあまり在庫捌けてないのかなーと思ったり。たまたまかな。

内容に関しては、基本的に「へーこんなのがあるのかー」という純粋に関心が湧き出る内容。ぶっちゃけますと、日本ではあまり知られていない作品が多いのでそう感じるだけ、という部分もなきにしもあらずですが、しっかりとアトムや草薙素子や鉄人28号(28号はコラム的に触れれているだけなんだけど)といったものから、広告デザイン(空山基のセクシーロボットがエロい)に用いられた特徴的なロボットまで「広く(それなりに)深く」といった感触。
個人的にはカルチャーとしてのロボットではなく実際に歴史を辿って原初のロボットを紹介するのが良かったですね。「初期のプロトタイプ(EARLY PROTOTYPES)」という章で紹介されるのだけれど、そこで一番最初に紹介される11世紀の「蘇頌の水運儀象台」という、ロボットという単語からはイメージしにくい「時を刻む速さを一定に維持する技術を用いた装置」の先駆けとして紹介されていたり。

ともかく読んでいて楽しい。
ただ、著者があらかじめ語るようにバランスを保つために義務的に盛り込んだであろうロボットについては、彼女の思い入れがあるであろうロボットの紹介に比べると明らかに熱量に差がある。そういうのがある意味でいかにもオタク的というかフリーク的で面白かったりもするのだけれど、自分の大好きな「トランスフォーマー」がウィッキーさんの導入レベルの紹介にとどまっているのはいただけません。
ていうか、ほかのロボットの紹介に比して「トランスフォーマー」だけ露骨に「お前実はトランスフォーマー知らないだろ」な文章なのですよ。「鉄腕アトム」との文章に比べると泣けてくるくらいテキトーです。
あと邦訳部分もちょっとアレでしてね、見出しが「オートボット(サイバトロン)とデストロン」というふうになっているのですよね。オートボット(AUTOBOTS)というのは本国でのヒーロー(と言い切れない部分がTFの魅力なのですが)側の勢力の名称で、()のサイバトロンというのが日本での放送にあたってローカライズした名称なのですよ。で、語感からもわかるようにデストロンというのがヴィラン側の勢力の日本語名称なわけですが、本国ではディセプティコン(DECEPTICON)となっておりまして、そうすると見出しの情報が明らかに不足していたり()の付け方がおかしかったり、というのがわかるわけですね。

これは翻訳にあたってのロストみたいなものなので原著でどうなっているのかはちょっと微妙などころですが、知っている人からすると粗がまったくないとは言い切れない部分もあります。

あとサム・ライミの「スパイダーマン2」に出てくるドクターオクトパスもこの本の中で紹介されるのですが、彼の紹介自体はともかく作品に対する筆者の感想に対して


,;r'"´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`ヽ、
         ,r'";;;;:::::;彡-=―-=:、;;;;;;ヽ、
        /;;ィ''"´  _,,,,....ニ、 ,.,_ `ヾ;;;;〉
         `i!:: ,rニ彡三=、' ゙''ニ≧=、!´  屋上へ行こうぜ・・・・・・
        r'ニヽ,   ( ・ソ,; (、・')  i'
         ll' '゙ ,;:'''"´~~,f_,,j  ヾ~`''ヾ.  久しぶりに・・・・・・
        ヽ) , :    ''" `ー''^ヘ   i!
        ll`7´    _,r''二ニヽ.     l  キレちまったよ・・・・・・
        !:::     ^''"''ー-=゙ゝ    リ
        l;:::      ヾ゙゙`^''フ    /
        人、      `゙’゙::.   イ

と思う部分もあったりはします。
しかし、それすらも楽しめるのがこの本の特徴でもあると思います。
個人の純粋な熱意によって成り立っているがための、中立性や客観性を欠如したストレートな思いが伝わってくるがゆえの楽しさというか。

それと日本版にはアイボとアトムとボイラープレートのトリコロールな表紙のカバーになっているのですが、それを外すとホラーテイストなマリア(かな?)の顔が表紙になっていて、一粒で二度おいしい装丁になっております。

これ一冊で古今東西を網羅できるというとあまりにも過言ですが、ロボットの歴史を概観しつつ所々で爪の甘さやこだわりが発揮される起伏のある読み物ではあるので飽きずに読むことはできると思います。

めちゃくちゃ豪華なロボットの同人誌と考えれば、中らずといえども遠からずでしょう。

古田雄介:故人サイト 亡くなった人が残していったホームページ達

久々に更新。
しかしあれですな。ボリュームのある本を読んでいるときにうっかり軽め(ページ数・文字数的に)の本に手を出してしまうとそちらを優先してしまいますね。結果、重めの方の本はどんどん遅れていくという。
もっとも、今回の本は内容は重めではあるんですけれどね。

内容自体はタイトルのとおりで、亡くなった人が生前に管理していたブログやツイッターなどのSNSをまとめて、その前後の反応などをまとめた本でありますです。

第一章:突然停止したサイト 本人が自分の死を予測していない、少なくとも予兆を表に出していないサイト
第二章:死の予兆が隠れたサイト 本人は死因に気づいていない、または表に出す気はないが、予兆が見えているサイト
第三章:闘病を綴ったサイト 病気の日々を長期間書き連ねているサイト、死と向き合って生きてきたサイト
第四章:辞世を残したサイト 本人による辞世の挨拶が残されたサイト。ただし、自殺したものは除く
第五章:自ら死に向かったサイト 自殺願望を綴って実行したサイト、自死をほのめかして消息を絶ったサイト
第六章:引き継がれたサイト/追憶のサイト 残された人々が長年引き継いで管理しているもの、追悼のために構築したもの

といった感じに章立てされており、章の合間に4ページほどのコラムが載っています。一つ一つの事例を見開き2ページで紹介していくわけですが、ページの上半分はサイトの画像(サイズが小さめで見づらい)で下半分が文章になっているため、文字数や読解という点で言えばかなり読みやすい本ではある。
のですが、やはり現実にあった、というより明確にサイトという形で残っている「死」を意識せざるを得ないので気分が落ち込みます。しかもタイミングが悪く、この本を読み始めた次の日に高畑勲の訃報を知りまして、昨日まで結構引きずっていました。ていうか、今も結構引きずってはいるんですが、そうも言ってられませんしね。
一般の人から事件・事故でネット界隈で少し話題になった人、アスリートやアニメ監督まで国境を除けばボーダーレスに収集されています。
しっかりと管理されているものからスパムの温床になっているものまで色々あって、なんだか物理的実体を持つ墓標なんかと少し似てる気もする。
漫画家を目指しながらも夢を果たせず母と心中した人や、死後もその研究成果などを管理されている学者、交際相手に殺されたにもかかわらずツイートを吐き続けるツイッター
どれもこれも自分に照らし合わせてみると怖くなるんだけれど、意気揚々と世界へ旅しに行って伝染病で亡くなったりバイクを盗まれて殺されたりと、そういうのを知るとやるせなくなってきます。
世の中には色々な人がいて、色々な思惑があって、当たり前だけれど自分が目にしている人たちっていうのは生きているのだ。「リメンバー・ミー」じゃないけれど、誰かを思うということは、何も生きている人だけに対してだけではないのだろう。むしろ、亡くなった人を思うことでしか感じられない何かもあるのかもしれない。それがたとえ、この本で、インクでできた数百の文字列や読みづらい小さな画像ほどの繋がりしかなかったとしても。死んだ人の残した言葉から、こうしてブログを始めた自分にしてみれば、特にそう思う。

 もちろん、そんなことは小さな頃から我々が当然のこととしてやってきたことであるというのは百も承知だ。たとえば絵本にしたって、すでに亡くなった人の書いたものであることだってあるだろうし、歴史の教科書なんてものは側面としては極めて限定的ではあるけれど、それだけをまとめたようなものでしょう。小さな頃から、死者の残したものに触れて思いを馳せてきたはずだ。けれど、そういうものはいつだってそれだけの能力や人生の集積として刻まれている、いわば「成果物」なのだ。ヒトラーの行動ですら(単純な善悪二元論に押し込むとして)悪ではあっても、その悪逆非道を行うだけの能力があったわけで、それが歴史的な「成果」であることにはかわりない。
 けれど、この本で言及されている人の大半はそんな大層なことをしていない。称揚されることも批難されることもない。ただ忘却されていた人たちで、世のほとんどはそういう人たちだ。
この世界には自分の知らない人たちで満ちている。そういうことに改めて気づかされる本だった。誰もがやっているけれど、誰もやらなかったことの一つの達成としてこの本はある。

年明けに読んだものまとめ

久々に更新。
本だけだと取りこぼしが出そうだなぁ、ということで折に触れて漫画とかコミック類についても少し書いていくことにしる。
しかし読書感想をまともに書いていくには労力がかかりすぎるので、散漫にテキトーに書いていくスタイルにしようと思いましたまる。

ツルゲーネフの「はつ恋」
これ読んだのが2ヶ月くらい前で、たまたま売店で売っていたのを衝動買いしたんですけど、青空文庫パブリックドメインになってやんの。ま、短編ならともかく薄い文庫とはいえこの量をモニターで読むのは辛いのでいいんですけど、ちょっとショックではありました。
内容はあんまり覚えていない(爆)。というか引っ越した先に年上のお姉さんがいて恋をするという話なので、話そのものよりもそれこそ文学的表現や情緒といったものを愛でる小説だとは思う。とはいえ思春期特有の痛みや、ツルゲーネフの父親に対する、ある種の従属的な側面とかが垣間見えるようで面白くはあります。
あと130pの青春に対する叫びはきます。

次に読んだのが「ファンダム・レボリューション」。
読んで字のごとくファンダムというものの在り方や、それとビジネスの関係などが過去のいくつかの例などを参考に引き合いに出されていてかなり面白い。
個人的には「初音ミクマイリー・サイラスみたいに酔っ払ったりしないから」という向こうのティーンネイジャーのシビアな意見が爆笑ポイントでした。
「いや、それは違うだろ」という部分もなくもない、というか自分の考えるオタク論的なものと違う部分があったり(そもそもオタクとファンダムが似て非なるものなのでしょうが)もするんですが、全体的にはファン心理やファンダムという行動とファン・オブジェクトの在り方なんかはすごい得心のいくものになっている。
ファンでなくなる、という部分まで含めて論じているのはなかなか潔い。

で、昨日読み終わった「EDEN」っていう漫画雑誌・・・雑誌っていうか単行本なんだけど、いろんな作家の描き下ろし漫画が集まったものなんですが、それの創刊号をひろゆき(ちがう)目当てで買いました。
ショウジはいつものショウジだったんですけど、個人的にはトウテムポール氏の「サヨナラせんぷうき」が結構良かったかな。青春のノスタルジーとしての扇風機の使い方とか。生まれも育ちも東京の自分にはあまり共感できないけど。
他には石川チカ氏の「メトロ出張版」が内容はともかく目の付け所が面白いなーと思ったり、ニコ・ニコルソン氏の「女教師サタディ」がトワイライト・ゾーンみたいなギャグで面白かった。
内容そのものが一番良かったのは朝陽昇氏の「白雪姫が微笑うたび」かなぁ。話の構成が上手いなーと。一番最初のページを二回目に読むと「あぁ…」ってなりますしねー。演技の質が感情的な回想に合わせて盛り上がっていく演出とか、「そこのみにて光輝く」の音楽演出と似ている。
この絵柄どっかで見た気がするんですが、何かのアンソロジーに書いてたりするかな。

待たせたな

誰も待ってねぇよ、というセルフツッコミもそこそこに久しぶりに読書感想を書こうと思い立つ。
実のところ一ヶ月前には一冊読み終わっていたのだけれど、すぐにほかの本に手をつけていたがために読み終わらず、しかもブックオフで年末年始のセールがやっていて余計に読みたい本が増えてしまう始末。しかも直木賞芥川賞の候補になった小説にもいくつか気になるのがあってもうてんてこ舞いです。
そんなわけで積ん読本がどんどん増えていくので、とりあえず少しでも書き下しておこうと。

で、今回読んだのは海外の児童文学と評論文。
児童文学の方は「ぼくが消えないうちに」という本で、作者であるA.F.ハロルドの邦訳本はこれが初ということ。出版は一年以上前ですが中古はあまり見かけないですね。児童文学ってわけで挿絵だったり表紙がモロに絵なんですけど、結構この絵柄好きなんですが、挿絵を担当した(挿絵は今回が初らしい)エミリー・グラヴェットはイギリスを代表する絵本作家なのだとか。わたくしめはこの本で初めて彼女の存在を知ったのですが、邦訳数はともかく2007年には邦訳された絵本が出版されていたので少なくとも10年前には注目されていた模様。情弱なり。

この本はいわゆるイマジナリーフレンドを題材にした本なのですが、まえがきを読むとハロルドもエミリーも幼少期にイマジナリーフレンドが見えていたのかな、と。だからこそ、この本を書いたのだろう、と。冒頭に添えられているクリスティーナ・ロセッティの詩がこの本の全てを表しているといっても過言ではないので、ぶっちゃけそこを引用してしまえば作者の思いみたいなものはわかる。内容は一種の冒険小説というか、2分間の冒険的というか、子どもの想像力を大人が代弁しているとでも言いたくなる「想像力の本」であると。
それと記憶の物語でもある。読んでいてワクワクする場面もありますし、思わず涙が出そうになる場面もありますし、「今はなき古き友への弔い」としての物語でもあって、そこは素直に泣けるんですけど、いかんせん「トゥモローランド」な選民思想が見え隠れしてねぇ・・・。
劇中に登場するイマジナリーフレンドの一人であるエミリーがこう言うんですよ。
この子どもたちってね~中略~見えないお友だちが必要だったり、ほしいと思ったりしてるのに、つくりだすだけの想像力がないの。それができる子は、めったにいないからね。ほんとに輝くほどの、すっごい想像力を持ってる子だけだから
この本の世界ではイマジナリーフレンドの集まる世界みたいなものがあって、主人公のアマンダのイマジナリーフレンドであるもうひとりの主人公のラジャーが、イマジナリーフレンドの先達であるエミリーにイマジナリーフレンドがなんたるか、という説明を受けるシーンでの台詞なんですよね、ここ。
いやいや。いやいやいや。それじゃ子ども万人が想像力を持つっていうメッセージにならんのですよ。いやね、最初からそういうメッセージを伝える本じゃなくて、あくまで個人的な体験に基づく個人に向けたフィクションとしての側面が非常に強いので、そのメッセージを発することがこの本の中で何か矛盾をきたすとかそういうことではないんですけどね、児童文学でそんな非情な一面を垣間見せなくてもいいじゃんすか。
内容が好きなだけに、こういうちょっと選民思想な部分がちょっと鼻につくんですよね。好きな描写とかは結構あるんですけども。真っ暗闇になった瞬間の表現としてページを真っ黒にしたりとか、文章だけじゃなくて本全体としての表現もかなり秀逸で手が込んでいるので、普通に読む分にはいいんですけど、コンプレックスをこじらせた自分が読むと作者の(あるいは邦訳者の)悪意なき蔑みみたいなものが垣間見えちゃって煩悶としちゃうんですよ。

それでも、やっぱり文章表現として気に入る部分も多々あって「冒険、というよ冒険の足がかりを失いたくなかったのだ(だれかに話しかけられたときに、読みかけのページに親指をはさんでおくのとおなじだね)」
とか、「ママの指先からまっすぐに洋服ダンスまでのびている、目に見えない線をたどった」とか、そういう些細な挙動や動作や状態なんかを小説ならではの言葉の妙で表現されたものが自分は好きなので、そういうのがそこそこ見られて良かったですしね。
減点方式だとかなり下がりますけど、加点方式だとかなり上がる、といった感じの本でした。

評論N方は「いじめは生存戦略だった!?」という本だったのですが、こちらは正直いって微妙の一言。何か新しい発見があるというわけでもないし、ほとんどが既存の論文の引用だし本全体としてのまとまりもないので全部を通して読むというよりは各章の気になる部分を読めばいいな、という印象。
ただ、意味不明なタイミングで挿入される説明になっていない説明図とか表とかは「ギャグマンガ日和」的なシュールな笑いがあります。個人的には「図1 つつかれてケガをしたニワトリ」というのが吹き出しました。いや、だって本当に必要ないんですもん、この図。絶対ページ合わせるために後から差し込んだだろう、という面白さがあります。
個人的には「文系の人にとんでもなく役立つ! 理系の知識」に次ぐダメな本(は言い過ぎですが)で、まあ人にオススメするような本ではありませんね。ふいに笑えたりはしますが、知的欲求を満たすために手に取る価値はあるかというと、そうでもないですねぇ。とかいい付箋貼りまくってはいますが。
この本をきっかけに、というのはアリかもしれませんが、これ1冊で何か知見が広がるというのはなさそうです。

フィリップ・ジャンン:ELLE(エル)(原題:Oh…)

エルが原題だと思って「そんな雑誌あったなぁ・・・サーチングの邪魔になりそうだけど」なんて思ってたら原題はもっと妙ちくりんな、というかおそらくラストのミシェルのつぶやきが原文のタイトルなのかなーと思ったりしていて、カールじいさんの原題並に調べにくそうだなーと至極どうでもいいことを思ったりしたわけですが。
オリジナルがフランス語だから邦題をフランス語の「ELLE(彼女)」にした、というよりは訳者のあとがきから察するにバーホーベンの映画化タイトルが「ELLE」だったから邦訳出版の際にそちらに寄せたということなのでしょう。まあ、「アメリカン・スナイパー」のようにもともとが別の放題で邦訳されて出版されていたものを映画公開に合わせて「アメリカン・スナイパー」のタイトルで売り直したこともあるし、それ自体がどうというわけではなく、ただの備忘録的に書いただけで深い意味はなかったりする。

前置きはそのあたりにして、さらっと読書感想に行きましょう。
自分でもよく説明しづらいんですが、ともかく面白いです、はい。なぜ面白いのか、ということを説明するのが難しい気がするんですけど、部分的な要素を取り出すとすれば冒頭のミシェルが自分の怪我の状態について分析しながら、息子や母親や元夫についての日常「的」風景の雑ごとに思考を割かれていくその様。それ自体の面白さと「ミシェルの怪我の理由」が明かされないまま日常「的」風景に突入していくことが、興味の持続に繋がっている部分はあると思う。もちろん、自分は映画の情報から原作を手にとったわけで、その怪我の理由を知っていたわけですが、それを勘案しても興味を引きつけられるわけです。
なぜなら、レイプ被害者(と記述するのがいささか誤謬がるように思われる)であるはずの彼女は、平然と日常に回帰しているからだ。と、書くとこれもまた正しくないように思われる。というのも、息子や母親といった彼女にとっての日常とのやり取りが描写される中で、やはりレイプによって負った精神的なダメージの描写が散見されるからだ。それだけでなく、物理的なダメージも。
その複雑で二元化されることなくレリゴーしている彼女の内面の描写こそが、この小説の面白いところなのではないかとわたしは思ふ。
単純な一人称形式であることからも、ミシェルの視点から物語を読み進めていくことになるわけですが、その場合に小説を面白くする要素が何かといえば、やはり彼女の思考そのものは外すことができないだろう。彼女というフィルターを通すことで小説の世界を認識する以上は、彼女が魅力的でなければならない。少なくともわたしはそう思う。
そこでいうとミシェルは魅力的すぎる。部分的な描写を抽出するとにべもない冷徹なキャリアウーマンとも思えるのだが、また別の段落では子ども思いだったり厭悪していたはずの母親を失う悲しみに体調を崩していたりと、ともかく重層的なのである。文章中で彼女自身が自分のことを「私はあまりにも強く、あまりにももろかったのだ」と評しているように、一見すると矛盾しているようにも思える人物でありながら、その実は矛盾していない--というより、その矛盾こそが人間であるというごく当たり前のことを当たり前に描き、その一方でミシェルの不義理だったりあまりに大胆不敵だったりする性事情という異様な感覚を平然と落とし込んでいることが、この小説の面白いところである。と思う。
これまで読んできた小説はかなり人物が一面化されていたり、あるいは事件・事故などの状況の変化に対応することで物語を進めるタイプの小説が多かったのですが、「エル」に関してはそういう印象はまったくなく、ミシェルという人間(設定・人物関係を含め)を描くことで物語を紡ぎ、そこに付随する形で状況があるといった感覚。だからこそ、レイプした犯人が判明した後もその犯人と交流を泰然と持ち続けるのだろうし。しかも、ひどくいびつな形でその関係が変化するという。
つまり、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」や「20th century women」と同じようなタイプの小説なのではなかろうか。メディアの形式は違うし、内容そのものもかなり違うんですけど。
むしろ、自分ごのみのタイプのモノを映画ではなく小説という別の媒体で触れることができたからこそ、この新鮮な喜びがあるのではないかと。
映画がどうなっているのか、実はまだ見ていないので知らないんですけど、映画の方も気になる。「エル」を邦訳した松永りえ氏のあとがきを読むに、原作とはややテイストが異なるということらしいので。
しかしまあ、なんというかこれといって難しい言葉を使っているわけでも難解な部分があるわけでもなく、それでいて複雑なものを描けるというのは中々興味深いというか。まあ訳者の手腕という部分もかなりかかわってくるので、あまりそこに収斂してしまうのも危険ではあるんですが。

うん、文句なしに面白い小説ですよ。最後の部分の解釈は、ちょっと自分には自信がないんですが。

日本の軍歌 国民的音楽の歴史

辻田真佐憲著の評論文。
どんな本かといえば「軍歌って何よ?」という本である。かなりざっくりしているけれど、主に第一次大戦前後から作られた日本の軍歌の衰退までを時系列的に解き明かしていく本です。
当時の軍歌がどういうものだったのかとか、実は思っているようなものではないのではないかという疑問を投げかけるものである。
特に興味があったわけではないのになぜか買ってしまった本なのですが、やっぱり興味関心の有無というのは読書におけるモチベーションにはかなり重要なものなのだと痛感いたした。

軍歌に対してまったく思い入れというものがなかったこともあって、著者の「軍歌は必ずしも戦争扇動や右翼的なものであったというわけではない」という主張に対して反発も同意もできず「ああ、そうなのか」という程度にしか思えなかったのがまず第一の蹌踉。
とはいえ、興味深いのはエンタメとして消費されるものと見た場合に軍歌が辿る道筋というのが、まさにエンタメ業界の構造そのもの(というか市場経済の力動か?)といった感じで面白かった。著者はエンタメ市場の流れを先に知っていて軍歌をエンタメとして位置づけようとしたのか、それともその逆なのかそこまではわからないが、まさにエンタメとしか言いようがない。
どういうことか。つまり、何かが流行る→無数のエピゴーネンが生まれる→衰退するという大きなサイクルにぴったりしているということ。もっとも、軍歌が消えた根本的な理由はひとえに戦争の放棄にあるわけですが。形を変えて当時の軍歌が生き延びてはいても、これから新しく軍歌が作られることは少なくとも北朝鮮が錯乱しなければありえないでしょうし、仮に北朝鮮がしかけてきたとしても日本が積極的に参戦する未来は想像しづらいですし、やっぱり新たな軍歌は生まれにくいというのはある。
そもそも、戦争のあり方そのものが変容してきているわけですからね。

途中経過

 えー目下のところ一冊読んでいる状態です
 が、いかんせん読むのが遅い・理解が足りない・集中力が持続しない・合間合間に読むという四重苦(最後の一つは怠慢だぎゃ)を背負っているのでまーこのブログの更新頻度が少ないこと少ないこと。
 これではちょっとアレだなーと思い、機を見るに敏という言葉が意味するように途中経過を書こうと思った次第です。何が機なのかというと、面白い文章を読んでいると「ナニカカキタイ」衝動が沸々と泡立ってくるので、そのモチベーションがはじける前に手をつけてやろうということですな。
 今読んでいるのはエリック・グリーン著/尾之上浩司+本間有・訳の「猿の惑星》隠された真実」でありますです。
 ちょうど第二章が読み終わったところなのですが、よく考えたら猿の惑星シリーズをまともに観たことがないことに気づき(一作目は観たことあるけんど)、「続・猿の惑星」の話が出てきたあたりからその弊害が表面化しまして微妙に詰まっていたりする。弊害というのはまず単純に映画を観たことのある前提で進んでいきますから、ネタバレを食らうということ。ウン十年前の映画にネタバレも糞もあるかいと仰る方々もいらっしゃるでしょうが、そりゃ気になるでしょうよ。そこには処女と非処女・童貞と非童貞に匹敵する絶対的なボーダーがあるのですから。
 そうでもないか。作品によるな、うん。この例えもおかしいし。
 二つ目の弊害は歴史に疎いということ・・・はまあでも別にそこまでアレなんですが、猿の惑星のスタッフや原作者などについては知っていないと名前と行動などには言及されますが具体的なイメージがわかないのでちょっと毎回名前を調べたりしないといけないので、それも読むのが遅くなる原因の一つかも。あとチャールトン・ヘストンが当時どういった印象を大衆に与えていたのか、という部分とか。これもまあ一応説明はされますけど、やっぱり向こうの事情について知っていた方がより理解はしやすいだろうし。
 でもまあ、だからこそヘストンの起用についてとか、その効果とかを論してくれているので評論としてはしっかりしているんですが。猿の種類によって人種構造や権力構造が違っているといった部分や、映画本編に至るまでの変遷や脚本の移り変わりなどなど、その裏側をしっかりと書いていくれているので「そーなんだー(このcm最近見ないな)」となること請け合いです。

 で、どうやら第三章から三作目の「新・猿の惑星」がそれ以前とそれ以降のシリーズの分水嶺になっていることに触れつつ本格的な解説に入っていくのですが、その前に本編観といた方がいいんでねーかという気がして止まっているんですよね・・・。

 今度新作やるんだし、GyaOかどっかで新作一気に無料公開してくれんかな・・・やるとしてもジェネシス・とライジングだよなぁ。いや、映画としてはむしろこちらのほうが好きなんですが(旧シリーズは1しか見てないので比較はできまへんけど、多分超えてくることはないだろう)。