dadalizerの読書感想文

読んだ本の感想(誤謬アリ)を綴るブログ。オナニープレイ。

遠藤周作:沈黙

 スコセッシの映画を観た直後に文庫版を買って九月頭に読み始めたから、購入から読書開始までに半年以上の間隔があったということになる。いや、他にも本を読んでいて後回しにしていたからなんですがね。映画を見たテンションで衝動買いしてしまうことはよくあるんですが、買ったまま放置しておくことも多くて困ったものだ。
 
 さて、それでは読書感想をば。17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説であるこの「沈黙」ですが、まず普通に読み物として面白い。解説で佐伯彰一が言及しているとおり、構成の妙もあると思う。まえがきとして15ページに渡って小説の舞台となる時代の現状が、さも実際にあった歴史の概説のように語られ(実際、史実に基づいている部分も多々あるだろう)、主人公たるロドリゴ司祭の書簡として彼の主観から100ページ以上語られ、そこからはロドリゴをフィルターとして客観的に(半客観・半主観)世界が綴られていく。さながらザック・スナイダーの「ウォッチメン」のようですらある(こっちは映画だけど)。これはなかなか大胆な構成ではるのだけれど、「十頁だけ読んで~」の著者だけあって冒頭からなぜかぐいぐいと持っていきます。それもこれも、冒頭の一段落にあるだろう。以下に抜粋するぞよ。
ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルイエズス会が日本に派遣していたクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである。この教父は日本にいること二十数年、地区長(スペリオ)という最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。』ここからさらに『稀にみる神学的才能に恵まれ~』と続く。
 一文目から何かただならぬことが起こったことが伝わってくる。マンガ的に言えば、主人公の属する組織のトップクラスの人物が敵に屈服させられたということが告げられるわけである。個人的には「D.Gray-man」の元帥(名前忘れた)の一人が殺されたと報告されたあたりの衝撃に近い。あっちは序盤とはいえすでに物語がある程度進んだ段階だった(まあ週刊連載だし映画や小説のようにはいかんでしょう)が、こっちはそれを冒頭一発目に持ってくるのである。
 そして構成としてはその彼を救いに行く話であるわけだ。そりゃワクワクするでしょう。映画を先に観ていたわたしでさえもワクワクしましたもの。それを文章で魅せてくれるというのが、やはり読み物の面白いところだろう。
 とはいえ、これは小手先のギミックに過ぎない。この小説の真に面白い部分は、その内容そのもの、神の存在への問いかけ(途中までではあるけれど)にある。それを「沈黙」と題するセンスも秀逸(といってもこれは編集側の以降で筆者は「ひなたの匂い」としようとしていたらしいですが)。それをカトリックであり聖書的宗教的知識をも持ち合わせている遠藤周作が、司祭を主人公に据えてメタファーなどというのもなしに真正面から描いたところがまた、ほかの類似テーマを持つ作品とは異なるところだろう。
 私自身は無神論者で宗教とはまったく無縁の人生を歩んできた標準的日本人ではあるものの、「神がいたらいいなぁ」と思うロマンチストでもある。もちろんカトリックだとかプロテスタントだとかもよくわかっていない。それでもこの「沈黙」をパンピーのわたしが面白いと思えるのは、前述のとおり「神」というものの存在を人間の営みの中から問いかけること(というかその人間の営みの描写そのもの)が痛烈に胸に響いてくるからだ。
 なんですが、「神はいるのかいないのか」というのはロドリゴが本作を通じて自問自答することではあるけれど、実は彼が「転ぶ」あたりから問題は転化(というか昇華)しているんじゃなかろうか。
 というのも、ロドリゴがまさに「転ぶ」その瞬間に彼は「あの人」の顔を思い浮かべますし、「いるいない」ではなく「どう在るのか」という問いに焦点が当てられているように見える。
 随所に描かれるロドリゴの内面が人間が普遍的に持っている部分であるため、人種を問わず彼の中に埋没していってしまう。自己欺瞞や自己正当化などなど、個人的には179p・219p・223p・225p・240p・256p〜のあたりはかなり気に入っている。ほかにも172pの「司祭が」論破した気になって優越感にひたるとこは、どうしようもなく人間的だったりして身につまされる。
 一本筋の話で、ともすれば単調であるにもかかわらずぐいぐい引きつけてくるのはひとえに彼の実力であろうし、スコセッシもそれは同様だろう。
 
 スコセッシの、小説にはないあのラストの意味をもう一度考えてみる。

 あくまで感想ではありんすが、読み違えている部分も結構ありそうなんだなぁ・・・

武田砂鉄:コンプレックス文化論

 タイトル詐欺じゃないのだろうか、これ。だって全然文化論じゃないんだもの。コンプレックスを持った著名人にインタビューしたものを掲載して、それぞれの章に強引なこじつけのような前書きと後書きを加えたものだ。だから、なんというか、私が思っていたような精神分析だとかそういった体系的にまとめられたものではない。
 や、ちゃんと調べもせずにタイトル買いした自分の落ち度なんですが、思ったのと違うものだった。だからといって読み応えがないかというと、そうわけでもないのだけれど。
 特にインタビュー以外の部分での著者のかさ増しとも思える考察もといこじつけが面白い。純文学とか古典映画とか、それっぽい作品をいちいち援用してくる部分とか、本の雰囲気と合致していていい意味で小賢しい。
 あとはインタビューの中でちょいちょいメディア批判めいたものが図らずして浮かび上がってくるのも、インタビューとかエッセイとかあまり読まない自分にとっては新鮮だったかな。
 とはいえ、論拠が全体的に一般論への共感という部分で成り立っているため、科学的にとか学術的にとか、そういう自分の期待した部分は皆無なのでやっぱり肩透かしなのは否めないかなぁ。
 あとはまあ、インタビューという形式上しかたないのかもしれませんが、インタビュアーのスタンスが尻軽なんですよねー。相手に気持ちよく話してもらうためにヨイショはやっぱり必要なのでしょうが、この本みたいに別の人物のインタビューを連続で読まされるとどうにも浮薄な印象がして、コンプレックス持ちの自分としては少なからず反感を抱かなくもない。
 この辺のバランスって、案外難しいのかもしれない。記者会見なんかみたいに、ある特定の答えを導こうとするのもそれはそれで誘導尋問でしかないので不快なのだけれど、ともかく相手を気持ちよくさせるというのも、やっぱりどうかと思う。
 ていうか、コンプレックスがあったから云々ってカオス理論のそれとしか思えないので、やっぱりこじつけという気がして著者の意見はあまり信用できない。前述のとおり尻軽スタンスだし。たしかに、こと芸術方面ではコンプレックスやトラウマといったものが重視されることは多い。ガチでトラウマを植えつけられた人なんかは、脳の防衛機制の面からそういう風なりやすいというのは一応科学的な論拠としてあるにはあるのだけれど、この本に登場してくるのはそういうタイプではない気がするしなぁ。
 まあ読んでいて面白いものではあるので、自分みたいにひねくれてない人は単純に笑える読み物として受け止められるんじゃないかしら。

 リア充が上から目線でコンプレックス持ちを半笑いで睥睨する、見世物的な読み物としては秀逸だと思う。うん。だから、平均的なリア充こそこぞって読むべきかな、これ。

ジャンキオン=バロウズ

 誰がわかるんだこのパッチワークタイトル。
 わかってくれた人は間違いなくギーク&ナードの複合ですので社会不適合者の可能性がアリ。

 どうでもいい(どうでもよくない)ことなんですが、本当に本を読むスピードが遅いのが嫌になります。それ以上に、本を読むのってかなりの能動性と集中力と体力を要するので手を付けることそのものが割とハードルが高いのである。
 そんなわけで、文庫で300ページもないウィリアム・バロウズ著「ジャンキー(鮎川信夫訳)」の読了に一ヶ月要することに。どうでもいいけど予測変換で出てきた雀鬼ってかっこいいですね。
 20世紀アメリカ文学界に名を刻んだ鬼才の処女作ということらしいのですが、わたくしは「裸のランチ」のタイトルだけは知っていながらバロウズの本は一冊も読んだことがなかった。というか、ほかの有名どころの著作だって読んだことないのですが。
 で、どうだったか。うーん、この作品を評価する場合は出版当時の時代背景を考慮してタブーを赤裸々に綴った挑戦的な作品という前提を知っておかないといけないのでしょうが、今この時代に読んだ身としてどうかというと、別にそこまでという感じ。
 ほとんどジャンキー(回復不能麻薬常用者)の自伝ではあるのですが、自伝ゆえに映画のような物語的な展開とかは別に面白いものはなかったりする。ていうか体験談の羅列のようなもので物語とかそもそもあってないようなものでしょう。アングラーの体験記というか手記のようなもの。タイトルどおりのジャンキー描写。淡々としたトーンで麻薬の使用による中毒と回復を延々と繰り返していくだけなので、後半に進むにつれてどんどんマンネリになっていくのは拭えない。もちろん、その煉獄感こそジャンキーがジャンキーたる所以なので、繰り返しの日々を描くとなると必然的この構造になってしまうのだろうけれど。
 もちろん、同じことの繰り返しとはいっても細部は違う(使っている麻薬が違うので症状が違ったり、禁断症状だとか色々)。が、読む人によってはだからどうしたという以外の感想はでてこない。お母さんにとってウルトラマンが同じ顔に見えたりガンダムの違いがわからないのと同じで。自分も割とそんな感じだったりする。
 それでも、さすがは鬼才というべきか端々に自分のツボをついてくる表現がある。わたくし、小説に関しては物語そのものより表現の技巧とか美麗さを愛でるタイプですからね、基本。
 『彼の顔は、その目とは無関係な苦悩にくまどられていた。それは彼の細胞だけの苦悩だった。彼自身――そのどんよりとした、油断のない冷静なごろつきの目からのぞいている意識的な自我――にとっては、この打ち捨てられたもう一人の彼自身の苦悩、肉と内蔵と細胞の神経系統の苦悩は少しもあずかり知らぬところなのだ。』
 こことか、肉体と自我意識の解離描写がすごい絶妙。あとちょっと肉体に対して無責任な感じも言い訳がましくてすごい好きです。
 『女に冷淡なのを見てホモだと思い込んだ青年が、実際はホモなどではなく、単にセックス全体に対して無関心であるにすぎないとあとでわかることがよくあるのだ
 これもすごい些細な文章ですが、シニカルな文体と相まって笑みこぼれます。十中八九、バロウズ本人の経験談だろうし。
 『死は生の欠如』っていう短いフレーズも、死があくまで主体になっている表現でシニカルでニヒルでダダイスティックなジャンキーらしい一文だと思います。や、原文知らんのですけど。

 それ以外だと注釈ギャグがボケ突っ込みみたいで面白い。個人的に注釈の文字はキートン山田で脳内再生された。
 『わたしは麻薬に親しんだことを後悔したことは一度もない。ときどき麻薬を使ったためにいまでは常用者にならなかった場合の自分よりも健康になっていると思う。人間は成長が止まるとともに死にはじめる。麻薬常用者はけっして成長を停止しない。たいていの常用者は周期的に麻薬の習慣をやめるが、それとともに肉体組織の収縮と麻薬依存細胞の交替が起こる〔原著編註―これは医学専門家の見解ではない〕。』とか、バロウズの無知(というかアファメーション的願望かしら)に対する無慈悲な突っ込みとかが散見できて楽しい。
 正直なところ、あまり話は頭に入ってこなかったんですけど、ジャンキーってどうやって金を工面しているのかもうちょっと知りたいという欲求はあったり。
 
 ぶっちゃけた話、単純に読んでいて面白いという意味では本文よりも解説とあとがきのほうが面白い。
 訳者は『接した人々等はすこぶる多種多彩で~』なんて書いているが、これって皮肉じゃないのか(笑)
 解説にある「はずみとはいえ妻(バロウズは同性愛者ですが)を射殺した直後に書き始められた」という文章も色々と境遇を考えるとホロリ。原著には巻末にジャンキー俗語用語集がついているらしいので、正直日本版もそれ訳してほしかったりするんですが、まあ今なら割と簡単に手に入りそうだし機会があれば自分で買うか。

「覚書」

 ジャンク・ホッグ:人一倍多量の麻薬を使う常用者。一日に5グレイン以上使うと、この暮らすに入る事になる
 しまいこむ:自分の麻薬を用心深く隠すこと
 お蔵を開けてやる:ほかのジャンキーが隠している麻薬を失敬すること
 お前の背中には老いぼれザルがしがみついているんだろう?:麻薬を常用しているのだろう?
 ズート型の服装:肩幅の広い長い上着とだぶだぶですその狭い長いズボンからなる服装
 ポット:ヒッピー用語。マリファナの意
 ツイステッド:同上。ダメになること
 クール:同上なんでも好ましいことや、警察の目を引く危険性がない状態を意味する万能語。反意語にアンクールがある。
 

ちょっともやもやする

 ずいぶんと前に買っておきながら積んでいた「伊藤計劃トリビュート(正確にはトリビュート2)」にようやく手を付けた。
 手を付けたっつってもいくつかある短編の中でもとりわけ短いのを一つ読んだだけなんですが、その一つに関してちょーっともやもやしたものがあったので感想と称して愚痴りたいと思う。
 で、読んだのがぼくのりりっくのぼうよみという弱冠18歳のラッパーが書いたらしい「guilty」という短編。
 うん、まあ、別に文章の破綻やいわゆるラノベ的な文章表現などもない(冒頭とか、ちょっと昔の自分ぽい書き方で恥ずかしい気にはなったのだけれど)ので普通に読めるのですが、ぶっちゃけそれだけ。
 まあページ数がページ数だけにそこまで長編にできなかったのだろうし(これに関しては本人の力量なのか出版側の要請なのか不明なのでおいておきますが)本職ではないというのは重々承知の上で一読者から言わせてもらうと「なんでこれを伊藤計劃のトリビュートに載せた?」と思うわけです。
 いーよ、わかった。この際、作品の質は置いておこうか(え?)。今時機械が支配していた(しかもかなり曖昧)とか、そんな程度の時間経過じゃ文明が断絶するわけねーからとか、そういのは些事だ。少なくともこの作品に関しては。だってこの「guilty」は多分、その執筆の発端からして質的なものより「ぼくのりりっくのぼうよみ」のエゴによる「実験」としての側面が強いはずだから。ていうか、質として語るならはっきり言って気になる部分が多すぎますからね、これ。短編だと普通はそういうバランスをうまくとるものですが、それができていないし訴えたいことも共感できなくもないけれど、それは考えに考えた末にアウトプットしたというよりも漠然とした「あーこんな感じだといやよねー」みたいな底の浅さを感じるのです。質云々以前に、執筆することへのエネルギー(それが善悪とか正負にかかわらず)がないように思えるのだ。
 邪推するなら、持ってこられた企画に「面白そうだしやってみようかな」という程度なのだと思う。それ自体はまあ、わたしに咎めることはできない。だって彼にしてみればそ仕事の一つとしてやっているだけだろうし、新しいことをやってみることができるという可能性があるなら自分も企画に乗ってみるだろうから。
 けれど「伊藤計劃トリビュート」という一冊に載せるには、この作品の中にも作者の中にも、あまりに伊藤計劃が存在していない。忖度してやれば作品の中から伊藤計劃的な何かを見出すことはできるかもしれないけれど、その忖度はもはや概念を拡大解釈して広義に敷衍しているようなものなので、そこまでいくと万人が持つものになってしまう。それは、伊藤計劃とは違うものだろう。その先の思考とディティールにこそ彼の神髄がるのだから。
 だってね、ほかの作家が作品の後の短いあとがき(のようなもの)の中で多かれ少なかれ伊藤計劃に言及し、彼の紡いだ物語がどうのように各作家の中に息づいているのか、敬意を表している。だというのに、この「ぼくのりりっくのぼうよみ」の中には伊藤計劃が介在していない。
 だってこの人、あとがきのなかで自分が作った曲の宣伝してるんだもの。伊藤計劃のいの字もでないんだもの。ほかの作家だって名前こそ出さないものの、そこには伊藤計劃に対する思いがある。なのにこの「ぼくのりりっくのぼうよみ」にはそれがない。伊藤計劃トリビュートにもかかわらず。
 興味本位で最初にこれを読むんじゃなかった。この一作品が入ってしまうだけで、この書籍を編纂した人たちの中に少なからず「妥協」と「打算」が入ってしまったことが分かってしまったから。
 いやね、伊藤計劃記録の単行本と文庫本でいくつも被ってるものがあるとか、それなら一冊にまとめられただろうとか言いたいことはあるんだけれど、それはまだいい。いや、本当はこっちにこそ怒りを抱くべきなのだろうけれど、得るものがあったからまだいい。
 けれど、こっちはだめだ。ぼくのりりっくのぼうよみの中には伊藤計劃を語っていない。彼が望んだことを、彼への賛辞の中で、この青年は足蹴にしたのだ。多分、悪意なく。
 これがわたしの的外れな感想で、作品から読み取れなかっただけだという可能性だってなくもない。けれど、いくら自分が読書に対して下手な横好きだからといって、この慇懃無礼さを見誤ることはないと信じたい。伊藤計劃の紡いだ物語が大好きな自分としては。 

 別に大人の事情なんてものをいまさらどうのこうの言ったところで、何がどうなるわけでもない。けれど、それによって伊藤計劃を好んでいる一読者が憤懣やるかたない思いを抱いたということをこのネットに残しておくことには、少なくともわたしにとっては意味があると思う。
  

言語を生み出す本能 上

 この本を第一回に持ってこれたのは結構、面白い。
 なにせ「言語を生み出す本能」は言語について科学的知見から書かれた本であり、それを言語としてブログに綴ることができ、それが図らずも最初の読書感想だというのも、なんだか運命的に思い込もうとすることもできなくもない。
 しかし、言語を扱っている書籍だけに、感想を書くのも一苦労だ。感想文を書くにあたって、また本をある程度読み返さなければならず、それが上下巻合わせて600ページを超えるとなれば、結構な重労働であろうことは書くまでもなく老若男女に伝わることだろう(どうでもいいが「老若男女」という言葉を予測変換に委ねると負けた気がするのは何故だろう)。それをやらなければならんのですから、面倒というほかにないでしょう。とはいえ、阿呆な私が読んだ本の内容を咀嚼するにはこうするしかないのである。あらかじめ気になるポイントには線引きしていますが・・・いやほんと、これ第一回でやる内容じゃないよう。
 誰が読んでいるわけでも誰かに向けて書いているわけでもないが、何よりも自分が読みやすいように書かなければ意味がないので、読みやすくするために章ごとに区切って書いていくのがベストだろう。大学受験にあたり、現代国語の長文読解をする際はまず文章を通しで読んでから、問題を読み、問題となっている箇所を読み直すべしと指導された。が、残念ながら完全記憶でない私は600ページ超の内容を大まかにも覚えていられないのである。
そういうわけで、チャプターに分けて各々で記載されている部分に関してそれぞれ言及し、最後に総括的にまとめる形式を取ろうと思う。少なくともこの本に関しては。

まえがき

 この本を読むきっかけになったのは映画「メッセージ」のサピア・ウォーフ仮説に対して思うところがあったから、ということをあらかじめ触れておこうと思う。思考体系は言語に依拠するというアレだが、もともとはサピア・ウォーフについてもっと知りたいという思いがある反面、ひねくれものでバランサーでいたい自分はむしろその仮説のカウンターとなる説がないかを知りたがった。というのも、サピア・ウォーフ仮説こそが現在の言語研究におけるメインストリームなのだと、映画の完成度(映画的嘘にまんまと騙されたと言ってもいい)からも思えたのである。主流に対するアンチこそ、自分が寄り添いたい岸辺であるから。
 そこで調べてみたら、むしろサピア・ウォーフ仮説のカウンターである「言語生得説」こそが主流であるということらしいことを知り、その説が意味するところに純粋な知的好奇心を刺激されたことが本書を読書するにいたった理由である。

第0章:はじめに

「はじめに」にわざわざ触れる必要もないのだが、著者であるスティーブン・ピンカーが本書を執筆するに至った動機について触れられていたので、軽く言及しておくことにした次第である。
 曰く「みんな人間の言語について気になってるよね? 気にならない奴なんて見たことないしなぁ。そうだ、それじゃあみんなのその好奇心を満たしてやろう」ということらしい。引用してはいないが、訳文とはいえ文体のフランクさはそこまで誇張していないし、書き出しはこれとほとんど変わらない。
 言語の謎が科学的に解明されつつあるのに一般にまで波及していない。こりゃいかんざきってことらしいですね。わずか3段落目からマスコミへの批判を含めるユーモアもあり、フランクな語り口で分かりやすく進行してくれるのだろう(実際、そういう意図も著者の中にある)と思わせつつも、言葉として登場するだけでこの時点では直接関係しないとはいえ「空範疇原理」などという聞いたこともない単語が出てくるため、一筋縄ではいかない読み物であることも予感させる。この単語に関しては下巻の用語解説にもないし。
 で、この予感は的中したりする。

第1章:言語を獲得する本能――――言語本能

第1項:言語能力の謎

 作者は綴る。今この文章を読んでいるあなたは、テレパシーやマインドコントロールなんかよりもずっと驚異的な現象に身をゆだねているのだと。それは、言語を通じてさまざまな事柄を相手の脳の中に再現する力を持っているからだ。そしてそれこそが「言語」なのだと。そして、いきなり読者に対して実験を試み、言語をタイトルに掲げるくだらない書籍の数々とは本書が異なることを告げる――――言語というものにに対して真摯に向き合うピンカー流の、エセ研究者や言語をダシにする連中への宣戦布告といったところだ。実は、そういった連中への批判めいたものが本書の各所で見受けられたりする。
 ピンカーはまた、「認知科学」についても触れる。『認知科学は心理学、コンピュータ科学、言語学、哲学、神経生物学の手法を総動員して、人間の知能のち組みを探るのが、この学問分野の目的である。(p18・9行目より抜粋)』
 また、早くもサピア・ウォーフ仮説について触れる(名前こそ出てこないが)。ある程度の教育を受けた人の大半は、言語についての先入観を持っており、その先入観というのは言語は人類の重要な文化的発明品であり、記号を使う能力の顕在化であり、言語の獲得という生物学的に前例のないことをやってのけたことで人類はほかの生物と一線を画した……etc。
 そして、それらの固定観念・先入観そのものにピンカーはこの項で疑問を投げかける。

第2項:言語は「本能」である

 項の題名から前項で呈した疑義への結論を提示するこの自信。彼の才覚とたゆまぬ研究に裏打ちされたものであるため、その自信には不思議と傲岸不遜さはない。なにせ、この項の冒頭から『約束する。本書を読み終わったときには、いま羅列した考え方のすべてが間違っていると確信してもらえるはずだ。間違っている理由はただ一つ。言語は文化的人工物ではなく、したがって、時計の見方や連邦政府の仕組みを習うようには習得できない。言語は人間の脳のなかにカッコとした位置を占めている。言語を使うという特殊で複雑な技能は、正式に教えられなくても子どものなかで自然発生的に発達する。私たちは言語の根底にある理論を意識することなく言語を操る。誰の言語も質的には同等であり、言語能力は、情報を処理したり知的に行動するといった一般的能力と一線を画している。(p19・12行目より抜粋)』
 少々長い文章を抜粋してしまったが、ピンカーがこの本の中で語ろうとしているテーマが端的かつ簡潔に言い表されているため、引用した。このあとに彼はこの言語能力を「本能」つまり生得・所与のものであるとして蜘蛛が糸を張る行為と同じであると主張する。
 つまり、言語が人間の持つ優れた能力であることを認めながら、それをもって生物から離別した特別な存在とするのではなく、コウモリがドップラーを利用して飛んでいる昆虫を正確に補足するように、渡り鳥が星座の位置を日時に対応させて何千キロの旅路に迷うことのないように、それぞれの生物種が持つ生物学的適応の一種である。そして、これにより図らずも(いや図ってるのか)サピア・ウォーフ仮説への挑戦にもなっている。
 また、後の章で触れることになるが、ここですでに学齢前の子ども本来的に有している文法知識がどんな辞書やコンピュータ言語システムよりも優れていることに言及したり、著者の母語である英語への(主に英語話者による批判からの)擁護し、評論家を論破するとまで言ってのけている。
 ダーウィンを引用し、ほかならぬダーウィンこそが言語が本能の一種であると見ていたことにも言及しており、読者の興味をかきたてる。ダーウィンが言語能力を「技術を習得しようとする本能的傾向」と結論づけていたというのも面白い。さらにウィリアム・ジェームズなる人物の主張を添えて、自論を着々と固めていく。この人物は人間は動物の持つ本能をすべて有し、それ以外の本能も多く持ち、それらがせめぎ合うからこそ人間は柔軟にものを考えられるのだと。思考が本能だと思いにくいのは、思考が本能的性格を持っているからだとして疑問を投げかける。
『なぜ人間は嬉しいときに笑うのか、なぜ顔をしかめないのか。~中略~こんな問を発するのは、形而上学者ぐらいなものだ。普通の人間なら、こう答えるだろう。「もちろん笑うし、群衆を前にしたら胸がどきどきするのは当たり前だ。それに、もちろん、われわれは女性を愛する。身も心も美しく、優しくかぐわしい存在を永遠に愛するのは当然ではないか」(p22・19行目~)』
 正直なところ、この部分に関してはその疑問こそ人間らしい部分ではないのかと個人的には思うし、あとに続く言葉では「たとえ」にしたってあまりに動物を擬人化させすぎているきらいがある気もする。しかし、言葉を使う際に人間はほとんど労せず無意識にそれをふるうが、「はたしてそうなのか」という「なぜ」「どうやって」と問いかけさせたいというそのクエスチョンに関して、ピンカーが目指す部分と共通しているのからこそ援用したのだと思う。そして、その疑問の先にある、当たり前でオートマチックにも思える言語使用の幻想を壊そうとしていることをこの項の最後に述べている。

第3項:チョムスキーをこえて

 項名どおり、ノーム・チョムスキーに言及している。言語生得、20世紀を通じてもっとも有名な言語本能類似説を提示した言語学者であり、ピンカーも彼から大きな影響を受けていることをここで述べている。ここで語られるのは、チョムスキー言語学にもたらした影響と、なぜ影響をもたらしたのかということが大まかに説明されている。まあ、言語を真面目に体系的に語るためには彼に触れざるを得ないのだろうし、そもそもピンカーの主張がチョムスキーの論を発展させたものである以上、避けては通れないのだ(避けて通るつもりもないのだろうが)。
 チョムスキーが登場した50年代の社会科学は「知る・考える」というった精神的作業を表す言葉は非科学的とみなされていたらしく、そこにチョムスキーが以下の二つの言語に関する事実を指摘することで風穴を開けた。
 一つ。『人間の発する文はほぼすべて、単語をまったく新しい順に並べたもので、史上にその前例を見ない。~中略~脳の中に、有限の単語リストから無限個の文を作り出す処方箋なりプログラムなりがあるに違いない。このプログラムを、(従来の、教育上の、あるいは名文を書く助けとしての「文法」とくべつするために)心的文法と読んで差し支えないだろう(p25・6行目から抜粋)』
 二つ。『前略~したがって、子どもは生来、あらゆる言語に共通する文法の青写真ともいうべきものを備えているに違いない。このいわば「普遍文法」によって子どもは、両親の発話から統語構造パターンを抽出する方法を知るのである
 そして、人間の認知体系の複雑さが肉体的構造のそれに劣らないことからも認知構造の獲得過程を同じような姿勢で研究するべきではないかと訴えた。
 人文科学全分野で引用される人物のトップテンに入っていて、しかも唯一存命中(2017年7月18日現在)というのは、端的に彼の影響力が分かる良い例だと思うのだけれど、ピンカーはこういう気が利くところがこの手の多くの書籍よりも大衆を意識している部分だろう。
 ただし、ピンカーは自身も大きく影響を受けていることを認め大きな部分で賛同しながら、ピンカーがダーウィン自然淘汰説で「言語は器官である」ことを示したようにはしなかったこと、それにとどまらず、形式主義の難解な表現が多用され、血の通った発話者についての議論がおざなりで観念的であることも指摘している。
 この、学問に対して誠実であろうとする姿勢こそ、ピンカーの優れている点でないかと個人的には思う。


と、ここまで書いてきたのだが、完全に見誤った。まさか第1章だけでこれだけの文量になるとは思わなんだ…。これはかなり長期的な作業になりそうなので、1章を1記事として綴っていこうと思う。
 もちろん、ほかにも読んでいる本はありますから、読了した本に関しては随時記事を作成していきたいとは思うのだけれども、ほかのもほかので重たいものが多めになのでキツそうだ。

 あと、せっかくなので本書を読み終え、さらに別分野の知見を組み合わせた個人的に思ったことを忘れないように付け加えておきたい。
 生まれる前の赤ちゃんは、親の言葉の内容を理解しているわけではないが、すでに右脳の記憶は機能している場合があり、母親の声の調子やリズムは覚えている可能性があるらしい。このことから考えるに、言語的思考を司る左脳だが、言語器官が正常に機能するためには身体的・感覚的なリズムを司る右脳と密接に組み合わさっているんじゃないかしら。

最後に、予後ノートとしてこの章で登場した人物や気になったワードなどをメモしておこうと思う。

1.ウィリアム・ジェームズ:ダーウィンの信奉者として言葉が引用されている人物。、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。日本の哲学者、西田幾多郎の「純粋経験論」に示唆を与えるなど、日本の近代哲学の発展にも少なからぬ影響を及ぼした。夏目漱石も、影響を受けていることが知られている。後の認知心理学における記憶の理論、トランスパーソナル心理学に通じる『宗教的経験の諸相』など、様々な影響をもたらしている。byウィッキー
 調べて思い出したのですが、『宗教的経験の諸相は』一読したことがあった。訳文が古いこともあるのだろうがすごく読みづらい上にそもそも内容が小難しいためほとんど理解できなかった記憶がある。ただ、ざっとググってみた限りだとあまりダーウィンとの関連について語られているサイトはなかった。


2.オールマイチルドレン:米・ABCで1970年1月5日から2011年9月23日まで放送されていた昼ドラ。略称はAMC。舞台はペンシルベニア州パインバリー(架空の都市)。番組当初から1977年までは30分の放送だったが、後に60分番組となっていた。byウィッキー。
 ほとんど日本語版の情報がないのだが、40年以上も続いたドラマということなので本国ではかなりの人気があったのだろう。しかしドラマで40年ってどういうこっちゃ。サザエさん的なアレなのだろうか。

3.剣歯虎:ネコ科の哺乳類。8000年くらい前に絶滅し、北米 の最新世の地層から化石で発見された。ライオンくらいの大きさの食肉獣で、上あごの 犬歯が短剣状に発達している。スミロドン。サーベルタイガー。

4.マストドン:ゾウ目マムート科マムート属に属する、大型の哺乳類の総称。原始的なゾウ類でありマンモスや現生のゾウに似ている。約4000万年前から11000年前まで生存していた。byウィッキー。
 余談だが、マストドンで検索すると新しいブログサービスのようなものの情報が大量に出てきた。まったく知らなかったのだが、なんだこれは。

5.ウーリーサイ:1万年前に絶滅したとされるサイで、マンモスのように全身が長い体毛で覆われていたサイである。そのためケブカサイとも呼ばれる。繁栄期にはヨーロッパからアジアまで広く生息し、人類とも同じ時代を生きていたため、洞窟壁画などにもその姿が描かれている。しかし、マンモスに比べると発見された個体数が少なく、今回検死がおこなわれたウーリーサイは、世界で唯一の生まれたばかりの若い個体だったのである。そのため、このウーリーサイの赤ちゃんにはサーシャ(Sasha)と名前がつけられ大切に保管されていた。サーシャの検死は、ロシアの研究者らによって行われ、詳しい検死の結果、これまでサーシャは1万年前に死んだと考えられていたが、3万4千年も前の時代のものであることが判明したのである。
 ヤフーで検索しても112件しかサイトが出てこなかったという、おそらく普通に生きている間に接触することはなかったであろう動物だった。なんつー希少種。上記の文章はこちらから引用させていただきました。(
enigme.black


6.バーナード・ショーアイルランドの文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリスト。ヴィクトリア朝時代から近代にかけて、イギリスやアメリカなど英語圏の国々で多様な功績を残した才人として知られている。byウィッキー

7.精神器官:p19で一部の認知学者が言語能力を左記の言葉で形容したとされる。なんとなく面白い単語だったので調べてみたが、哲学的な使い方をしているものもいるようなので特定の意味合いを持つ共有された単語というわけでもなさそうである。

8.オスカーワイルド:アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。耽美的・退廃的・懐疑的だった19世紀末文学の旗手のように語られる。多彩な文筆活動をしたが、男色を咎められて収監され、出獄後、失意から回復しないままに没した。byウィッキー。イケメン。
 ピンカーはp21で彼の「教育するのは立派なことだが、知るだけの価値のあることを他人から教わるのは不可能だという事実も、折にふれて想起するほうがいい」という言葉を引用している。

9.刺激反応学習:オペラント条件づけ。報酬や嫌悪刺激(罰)に適応して、自発的にある行動を行うように、学習することである。行動主義心理学の基本的な理論である。byウィッキー。
 刺激反応学習という単語はググっても出てこなかったが、おそらくはこの刺激に対する反応のことだと思われる。

10.概念生得説:生得論または生得主義(英: nativism)は、特定のスキルや能力、学習や行動の傾向などが脳の中に元から備わっているとする考え方である。これと対照的なのが経験主義で、生まれたばかりの脳はタブラ・ラーサであって先天的なコンテンツは無く、環境から全てを学んでいくと考える。人間の一般的な行動や精神がどのようにして形作られていくかは20世紀以降「氏か育ちか」論争として継続されている。 byウィッキー。
 チョムスキーがこれを言語本能と絡めて、再び提唱しようとしていたことが引用された文章から読み取れる。つまり言語は経験的なものでなくある程度生得のものであるということを主張している。



で、上記の文章を一か月たったいま改めて読み直すと感想というよりは各章のサマリーじゃねーかという気がする。
もちろん、それは各章ごとに自分が思ったことを想起するために必要なプロセスではあったのだけれど、こんな書き方してると終わらんですな。
一応、最初に読んだ時点で気になるところには付箋貼ったりしてたんですけど、内容が内容だけに再読が必要な気がして、今はストップしてますです。
なんで、これからは散発的に読んだ本の感想を記述していくことになるだろうと思います。思いますって、こんなのマスターベーションいがいのなにものでもないんですがね。

「綴る」に落ちる(fall in spelling ?)

 今になって読んだ本の感想を書いておこう思い立ったのは何故だろう。自分でもよくわかってはいないのだが、ある人物の影響があることはまず間違いないのだろう。死してなお彼の播種した自分の中に萌芽が芽吹いたことは否定しようのない事実であるのだから。できることなら、生きている間に彼との接点を持ちたかったものだが、わたしがこうして彼を語ることがせめてもの手向けにもなるだろうから、綴ることで彼の望みに少しでも貢献できればいい。まあ、ついでだけれど。

 映画の感想を書き残しておこうと思ったのも、同じ理由だと思う。彼は徹底してエゴのために世界を変えようと言葉を綴った。その純粋さに感化されたのだ。もちろん自分がここに言葉を綴る理由は彼とは違う。彼が外に向かって開かれているのとはむしろ真逆と言っても差し支えないかもしれない。いや、それがたとえ徹底的に自己言及的であったとしても、こうして開かれた場に放擲した時点で否応なく世界と擦れあってしまうのだろう。人はたとえ死んだとしても、自分と世界との摩擦係数をゼロにすることはできないのだから。

 さて、前置きが長くなってしまったが、テーマそのものは単純だ。ブログタイトル通り、読んだ本の感想を書き留めるだけ。小中学生なら夏休みの宿題で誰しもがやったことのあることだ。それを今、再びやろうと思う。

 前述したとおり、故人の遺志を継ぐ(なんて書くと過言も過言なのだが)ことは理由の一つではあるけれど、別の理由もある。

 映画の方はあくまで情動や気づきを言語化することそのものがブログにしたためる理由でもあったのだが、読書感想は言語メディアを言語にするという作業であって、そこにメディア的パラダイムの変換という楽しさは映画の方に比べると薄い。だからというわけじゃないが、読書感想文を書くと数行前に書いておきながら、実のところは感想というより情報整理に近いものになると思う。

  だって本を読むって、2・3時間で終わらないでしょう。そりゃものによりますけんど、基本的には小説であれそれ以外の書籍であれ、一読しただけじゃ圧倒的に情報整理にかける労力が視覚メディアとは違うわけで、それを自分の中に落とし込み知性の足しにするには読書感想文にでもしないと無理なわけです。

 読書感想文というのは、はっきり言って弁明のようなものなのです。評論なんて高尚で面倒なことをするにはあまりに自分は足りないし、誰かの為に整理整頓した情報として発信するには自分は内的関心にとらわれている。だから、小学生のざっくばらんで自由闊達な文体をも許す読書感想文という体裁を取ることにした。

 

そんなわけで、次回の記事から感想文をウェブに放流してやろうと思う。

例のごとく、見直しはしないと思うが。