dadalizerの読書感想文

読んだ本の感想(誤謬アリ)を綴るブログ。オナニープレイ。

【禿同】栗原康:「生の負債」からの解放宣言 はたらかないで、たらふく食べたい【禿同】

この間、といってもこのエントリを書き始めたのが2か月以上前なので、そこからさらに1か月ほど遡ることになりかなりのスパンを形容する「この間」になるのですが、学友から唐突に一冊の本を勧められた。それが栗原康「はたらかないで、たらふく食べたい」だった。
学友から本を渡されるまで、寡聞にして著者のことは全く知らず、さらに言えば著者が研究している人物のことや本に出てくる人名などについてもほとんど知らなかった(まあ、書中に出てくるタランティーノとか耳なし芳一はさすがに知ってるけれど)。
学友が私にこの本を勧めた理由は、まあ本のタイトルと私の理想が合致しているからだろう。なにせ、本を貸してくれた学友は本を読んでいなかったのだから。内容ではなくタイトルと帯で私が好みそうだと判断したわけで。そして、学友の碧眼は正しかった。

さて、この本の内容はタイトルの通りであるのだけれど、この著者のこの主張の説得力は割とすごい(ボキャ貧)。
大体、この手の主張をする輩というのは一度社会人として働いていたり、結局のところ今はフリーで自由にやっていますみたいな成功譚だったり自己陶酔的な自分語り(そりゃ当然なんですが)なわけですが、この栗原さんはその手の連中とは毛色が違う。
アルバイトや非常勤の臨時講師以外の社会人経験は正真正銘(本人談)ないのである。院卒は伊達ではない。まあポスドク問題もありますし、就職氷河期とかもありましたからね。
何が言いたいのかといえば、前者のように「かつて働いていた者」の場合は結局のところ何も変わってはいないのだ。
いや、それだと語弊があるのだけれど、既存の構造の中でループしているに過ぎない。それこそ、環境管理型権力アーティファクト)によって規定された資本主義・政府の囲いで、井の中の蛙がぴちゃぴちゃしているに過ぎない。安易な資本主義批判は馬鹿丸出しなのでなるべくなら避けたいのだけれど、一方でこの大規模なシステムを声高に罵倒してやりたいというのもやはりあるわけで・・・だからと言って社会主義万歳三唱するわけではありませぬが。
しかして、栗原さんは違う。もっと根本的な、それこそ脱構造主義的な、しかしクラシックな主義を主張するアナーキストだ。


お偉方はお偉方で生涯学習とか喧伝しつつ、そのくせ学習に充てる時間も(金銭的・心理的・物理的)余裕もないくらい疲弊させている。まったくふざけているとしかいいようがない。そもそも、学習すべきはちみたちではないのかね。

ひとしきり前置きを書いたところで、感想文らしく文量の嵩増しもとい構成を記述していこうと思います。
本書は以下のような構成になっております。


⓪キリギリスとアリ――はたらくこと馬車馬のごとく、あそぶこと山猿のごとし
①切りとれ、この祈る耳を――耳切り一団
②3.11になにをしていたか?――とうとう江戸の歴史が終わった
③豚小屋に火を放て――伊藤野枝の矛盾恋愛論
④甘藷の論理――うまい、うますぎる!
⑤地獄へ堕ちろ――ヘイトスピーチか、それともスラムの念仏か
⑥他人の迷惑かえりみず――心得としての高野長英
⑦お寺の縁側でタバコをふかす――大逆事件を旅してみれば
⑧豚の足でもなめやがれ――もののあはれとはなにか?
大杉栄との出会い――赤ん坊は決して泣き止まない
⑩ヘソのない人間たち――夢をみながら現実をあるく
⑪反人間的考察――歴史教科書としての『イングロリアス・バスターズ
⑫豚の女はピイピイとわめく――老荘思想の女性観
⑬だまってトイレをつまらせろ――船本州治のサボタージュ
・あとがき
・参考文献/初出一覧

といった具合。
各章の長さはまちまち、ていうかこれだけ細分化しているので一つ一つは短い。3ページくらいのところもあったりで超新設設計になっています。
最初の章を⓪にしたのもそれが理由だったりします(まあほかも長さはさして変わらんのですが)。なので集中力が持続しない人でも一つ一つの章を区切って読めまする。文章も軽くフランクに書かれているので(それが嫌って人もいるだろうけれど)すいすい読めます。
とはいえ、正直、読んだのがちょっと前だけに内容は抜けている部分もある。あるのだけれど、とりあえず付箋を頼りに各章でのダラダラと書きなぐっていく。

⓪キリギリスとアリ――はたらくこと馬車馬のごとく、あそぶこと山猿のごとし

「キリギリスとアリ」はもうそのまま。アリとキリギリスを逆転させただけ。立場を、ではなく結果を。ともすればルサンチマンマスターベーション二次創作ともとれるのでしょうが、仮にも博士であるわけで、その二次創作が二次創作たりえる論拠を「新自由主義、やりがい、労働倫理etc」ワードで提示する。
ここで掴みはOK。

①切りとれ、この祈る耳を――耳切り一団

①も有名な怪談話である耳なし芳一に関する話。私はおそらく、一般的な水準でしかこの話は知らないのですが、曰くこの話はもともと「耳なし一団」というタイトルで耳を切り取った平家の怨霊たちが主人公だったとか(黒澤明の「夢」で兵隊たちの霊がずらと並んでいるイメージが沸いていたあなた。後楽園でぼくと握手)。
どうもこの話と大河ドラマの「平清盛」が関係しているらしいのですが私は見ていないのでよくわかりません。とりあえず、著者はドラマを引き合いにしてこの怨霊たちに同情し、和尚をなじる。耳をはぎ取ったことも仕方ないと擁護するのである。
この怪談から展開されるのは奔流する情報への認知および社会学的なふるまいへの言及(たぶん役割期待とか、その辺の絡みがあるかと)、認知資本主義とかとか。
そこから著者の体験談としての「京都」という町に担わされた観光都市という役目。それ以外の側面の否定。さすがに古墳でカルピスをぶちまけるのはどうかと思うが(カルピスもったいないし)、要するに期待された振る舞い以外をすると白い目で射られることへのキュウクツさを言いたいのだ。
同調圧力というものに非常に近しいもので、これってはっきりいって「1984」的な相互監視のディストピアまっしぐらだと思うんですよね。そうでなくとも日本はイギリスと同レベルで監視カメラの設置数が500万台あるとかないとかって話ですし。今は確かイギリス抜いて1位なんでしたっけ。
思うに、災害のときに自販機なんかが荒らされないのって、モラルっていうよりもそういう「誰かが見ている」という植え付けられた強迫観念によるものなのじゃないかしら。そもそも、モラルというものが何かという話にもなってくることはありますし、さらに言えば「盆唄」でちょろっとあったシーンで人のいない家屋のシャッターがこじ開けられていたりする例もあったので、みんながみんなそういう律儀なルールドマンってわけじゃないのよ。改めて書くことでもないだろうけれど、そんな当たり前の大前提。
さらにさらに言えば、わたくしとして本当に死ぬ寸前だったり苦しんでいるのであれば、自販機を破壊して飲み物を飲むくらい許容してもいいと思うけれど。災害時に自販機を荒らす理由は本当に乾いているか、状況を利用して高値で売りつけようとする屑のどちらかだと思いますが。
それと、モラルに関することでいえば伊藤の「ネイキッド」とそれに対する藤田の考察が一読に値するものなのだけれど、まあそれは置いておこう。

この章で個人的に好きな一文があるので、覚書としての意味合いも込めて書いておく。
わたしたちはいつどこにいても、ひとつの行動を選択せざるをえない。それは生きているかぎりあたりまえなのであるが、でもいまの認知資本主義では、そのひとつでさえ考えて動く余地がほとんどない。~中略~もし実現されなかった行動まで、ひとつの生というか、生き方であると考えるならば、わたしたちは無数の生を殺したうえで生きているのだ。~中略~今の社会では、その殺戮さえも自覚しないまま生きていかざるをえない
この文中で、さきほどの怨霊と殺された無数の可能性としてのわたしたちを重ね、その否定ないし情報に甘んじることを芳一に無駄なアドバイスをした和尚と同一視し、命令を聞き入れない姿勢を提示する。無論、芳一と同様にその代償としての痛みを伴うかもしれないことを認めつつ。
たぶん、イーガン(てか量子力学とかへの関心)とか読んでると、この殺戮という表現は遠からずというか、よりポエティックになっているだけとも言える気がして、だから好きなのですよね。

②3.11になにをしていたか?――とうとう江戸の歴史が終わった

これはそのまま、3.11のときの著者の状況を描いている。まあそれ自体はカメロンパンとか気になりつつも全体的には「さようですか」程度なのだけれど、その当時の情勢を徳川綱吉の時代と重ね彼の政策を肯定的に捉えて、資本主義というか経済システム優先で人をないがしろにする世界への批判へとつなげている。
うん、何も間違ったことは言ってない。

③豚小屋に火を放て――伊藤野枝の矛盾恋愛論

最初の4ページはラフティング旅行についてなので特にな・・・この調子で書いていくと終わらないから重要なとこだけでいいか。
この章には自分の願望がそのまま文字に書き起こされている。ので、ママ引用。
「そもそも大学教授になることが目標ではないということをはなし。じゃああなたはなにがしたいんですかときかれたので、わたしは本がよみたい、本をかきたいとこたえた。それじゃあ、子どもとかわりないじゃないですかと冷笑されたので、わたしもヘラヘラと笑って見せた」
著者の場合、結婚を前提に付き合っていた彼女がいたものの、30超えて大学の非常勤講師でしかなくほとんど収入のない状態では(彼はともかく)彼女やその周囲から猛反対をくらってしまっていたので、私よりも問題があったのでしょう。
男性が妊娠して出産することができれば(技術的には確か実現可能な範疇にあったような)、もう少し変わってきそうなものでもあります。いやまあ、女性の身体性の搾取とか、そういう問題も孕んでいそうですが。
そういうのは別にしても、結婚を考えている彼女とは正反対に著者とその周りの働きかけのマイナス作用っぷりが面白い。たまたま出くわした友人がコペンハーゲンで監獄を共にしたことをよりにもよって彼女の目の前で言ってしまったり。
この章で語られる著者の行動がかなり私自身のそれと類似している。といっても、わたしはせいぜいしょっぱい大学の学士でしかないので、書き直しくらったとはいえ論文を書いたりしているだけまだまだ彼は労働者の範囲内だと思いまするが。
でまあ、彼女との交際の顛末は普通に笑えるのですが、そのあとの「矛盾恋愛のはてに」というパートでは中々に面白いことが語られる。深い、とか書くと途端に浅くなってしまうのであえて面白いと書きましたが、言っていることはかなり的を射ている。
当初は恋愛感情だったものが結婚を意識することによって自分のことばかり考えてしまい、見返りを求めるようになりいつのまにかそれは損得勘定になってしまう。宮台真司が言っていた通り、損得でしかものを考えられない人間(安倍政権を名指ししながら)は屑野郎で、それ以外の価値観でものを考えることが必要だ、と。
栗原さんの場合は自分のことを棚に上げていまいかと疑義を呈したくなるのだけれど、よくよく考えれば恋愛なんてものはお互いが好き勝手に好き合っているのだから、そこに犠牲的な精神を持ち込んではいかんのかもしれない。高校時代の私は、そういう考えもなくそういう振る舞いをしていたから人を傷つけてしまうこともあったのだろうなぁ・・・(遠い目)。
それでも、男女とか関係なしに、恋人とか友人とか関係なしに、好きな相手には何かをあげたくなるものだ。それは何か見返りを求めて、ではなく。自己満足と言ってしまえばそれまでだが、自分が満足することがまず第一ではないのか。自分が満たされずにどうして相手を満たすことができよう。

また、伊藤野枝という女性作家の話がこの章の大部分を占められている。その辺は大体全部今の男根社会に対する批判を含めて重要な部分なんですけどいちいち書き起こしてたらまとまらんので割愛。

結婚の起源は奴隷制とか、「家」とは豚を囲うと書いて「いえ」と読むのだbyアナーキストの部分とか面白い話はあります。

忘れないでください。他人にほめられということは何にもならないのです。自分の血を絞り肉をそそいでさえいれば人は皆よろこびます。ほめます。ほめられることが生き甲斐のあることでないということを忘れないでください。何人でも執着を持ってはいけません。ただ自分に対してだけはすべての執着を集めてからみつけておきなさい。私のいうことはそれだけです。私は、もう何も考えません。

④甘藷の論理――うまい、うますぎる!

去年の九月から、ひっちゃかめっちゃかにはたらいている。火曜日と土曜日、週二回のアルバイトである。正直、こんなにたくさんはたらいていたのは、生まれて初めてだ。やっているのは塾講師。~中略~授業自体はたのしいものだ。きまった内容をおしえて、学生とおしゃべりをしてくる
いきなりこの出だしである。いいぞもっとやれ
いや、バイト先まで片道三時間かけているから疲れるというのはわかる(わからん)んですけど、それにしても読む人が読めば噴飯ものなのだろうなぁ。
この章ではこのバイトの件でやせ細った著者がサツマイモを食べてサツマイモ上げて終わる(!?)んですが、そのサツマイモを巡る江戸時代・吉宗のちょっとした歴史話が面白い。帰結としては、「ナショナリズムが許されるのはWWⅡまでだよねーキャハハハハハ」です。超絶意訳ですが、要するに(国家とか)知るかバカ!そんなことより人人だ!ってとこでしょうか。

⑤地獄へ堕ちろ――ヘイトスピーチか、それともスラムの念仏か

ヘイトスピーチ、ダメ絶対。な章。
そこから展開されていくのは一遍上人の話であり、「自分のおこないに負い目を感じすぎて、そこから目をそらしてしまう人たちもいる。まわりのほどこしで生きていくのは恥ずかしいことだ、殺生をしてでもなにをしてでも、自分の身は自分でまもらなくてはならない。はたらけ、出世しろ、よりよい衣食住を手に入れろと。いずれにしても、ひとのふるまいに善悪優劣の区別がつけられる。一遍上人が、空也上人をうけて「捨ててこそ」といったのは、この区別を捨てれといったのである。」ということなのだ。だいぶ端折ったが、そういうことなのだ。これを犠牲と交換のロジック(白石嘉治)というらしい。また、そのロジックによる国家の囲い込みを論じ、それから逃れようとする人々を「ゾミア」と呼ぶbyジェームズ・スコット。ということが書かれている。
ちなみに、この稿の依頼として「ナショナリズムは悪なのか」(菅野稔人)を批判してほしいというものだったらしい。なんだ、私の要約もとい意訳あってんじゃん。

⑥他人の迷惑かえりみず――心得としての高野長英

年金の起源、頼母子講、無尽講、そういった相互扶助の話。で、その制度を使った高野長英という男の話。
この高野長英の話は面白い。一見するとポンコツに見える彼が随一の蘭学者であったこと、その最期とそれにまつわる血縁者の顛末。あるいは権力者のパワー自慢のための改ざんなどなど、この時代から体制側の歴史修正主義がはびこっていたのだなぁと今の政権を観ていて思う。
ここら辺はまあ生活保護の利用に関する批判に対するカウンターでもあり、そもそも論としての現在の年金制度への批判が込められている。
他人の迷惑かえりみず。それが相互扶助の神髄だ
クロポトキンの相互扶助論読んでみようかしら。

⑦お寺の縁側でタバコをふかす――大逆事件を旅してみれば

この章の最初のタバコの話は、正直なところ非喫煙者からしてみると「あぁ!?」となる部分はある。
ここに関しては詭弁もいいところである(面白いけど)。この部分だけは論拠に乏しい反面、喫煙と肺がんのリスクなど他者への害が明示されているだけに、詭弁を弄そうとしているのが空回りしているというのもあるだろう。
ただ、非喫煙者であるから、ではなく(や、それもあるけんど)本当に路上で煙草を吸っている輩は危険なんですよね。横断歩道で煙草を手に持った喫煙者とすれ違って危うく当たりそうになったこともある(なんでこっちが避けにゃならんのですか?)ので、余計にね。ただ、だからといって路上喫煙を禁止するというのは、それこそ治安維持法とかに近づいて行ってしまうので、難しいところではある。
だからといって臭い・汚い・危険・高額の4K要素を内報するタバコを商品世界のことに置き換えるのはやらしい論法のすり替えですよ。まあ、表現の上で吸われるタバコとかはかっこいいと思いますし大賛成なんですけど。
煙草論については伊藤の「人前アディクションダサい説」の方がビューポイントとしては納得しやすいしハッとさせられたしぃ。思想としては一貫しているので、そのブレなさはやはり称揚してもいいのだろう。

小栗判官の話は面白かったです。時宗なる一遍上人を教祖とあおぐ教団が広めたとかなんとか。日本神話っぽい異種姦ものです。
面食い小栗が美女に化けた大蛇に拐かされ、色々あって照手姫なる別の女を見つけるもここでもひと悶着あって・・・閻魔は出るし餓鬼になるしといった具合。
しかし、多くの民謡や神話に共通するように、この話も隠喩としての側面を持っている。餓鬼がハンセン病患者を表しているとか障碍者だとか被差別部落出身者だとかなんとか。浄不浄とか関係なく受け入れるよ精神を述べたかったらしい。
あとは寺でタバコ吸っていても許されるのだ、という話なんだけれど、他力の話は爆笑問題の太田がラジオで言っていたのもあってシンクロニシティ
曰く、自分の力で救いを求めるのは良くないと。それは自分の行為に見返りを求めることで、なんらかの価値尺度を設けることであり、それはひいては善悪優劣のヒエラルキーを認めることであり、人が人に支配されることである。
みなさん、自力はやめましょう。しんどいし。

⑧豚の足でもなめやがれ――もののあはれとはなにか?

江戸時代の源氏物語の解釈について。当時は儒教と仏教による曲解によってひどい解釈がされていたらしい。(すさまじく余談なのですが、ヤンジャンでまだ源君がやっていると聞いて驚いた。連載のページ少ないとはいえ)。
簡単に言えば「えっちなのはいけないと思います」ということだ。もっと言えば恋愛否定だろうか。著者的にはもののあはれと恋愛はほぼ同義らしいので、それを否定する儒教仏教マジうんちといった主張。逆説的な、ね。
わたくし自身は恋愛にそんなに重きを置いていないけれど、恋路に善悪の基準を持ち込んだらダメ、というのはまあわかる。
それを政治というレベルに置き換えて書いているので、なんだか大層な話に聞こえてくるのですが、結局のところはラベリング理論てことかな。
あと学者のMの嫁に恋して撃沈したくだり、Mが誰なのかすごい気になるんだけど、誰なんだろう。
第三世界かぁ・・・

大杉栄との出会い――赤ん坊は決して泣き止まない

満員電車に乗るくらいならサボろうZE。

⑩ヘソのない人間たち――夢をみながら現実をあるく

安部公房の赤いチョークを引き合いに、夢を論じる。
「にんげんのふるまいにひとつの標準が設けられて、それにしたがって生きていかなくてはならないと思わされる。人はもっと自由にふるまっていいはずだ。そのために本気で創意工夫を重ねてみる」
まあね、大リーガーになる夢は称賛されて、働かないで生きていくという夢が罵倒されるのはよくわからないよね。いや、わかるんだけどね。
まあこの章はラストの補記で落ちているので、それでいいか。

⑪反人間的考察――歴史教科書としての『イングロリアス・バスターズ

政治の不要性、というか不要であると氏は言う。私もそう思う。なぜなら私は魚雷だから。政治をおふざけとするなら、魚雷ガールにはもう縦横無尽に駆け巡ってほしいものですが。
冗談はさておき、政治というシステムは娯楽として余興として楽しむ分にはもってこいだけれど、自分の人生に密接に関係してくるから困るのである。大体、本当に政治って必要か?いや、この複雑化した世界で効率よく国家をというか国民を運用するためには必要なのだろう。
どちらが先かは知らないけれど、官僚主義と近い発想を基にしているはずだ。
民主主義にしたって結局は政治の一形態でしかない。民主主義に至るためにどれだけの血が流れたか。それはなんとなくわかってはいるけれど、しょせんは妥協の産物でしかないのではないか。
だから、政治がいかに汚わいと虚飾にまみれたものでしかないかということを「イングロリアス・バスターズ」の引用(タランティーノ的ゴア)によって、アガンベンバートルビーによって、歴史を都合よく利用してきたことを提示する。


⑫豚の女はピイピイとわめく――老荘思想の女性観
隙あらば自分語りをする著者ですが、ここでもまた過去のことが語られる。それどころか恋愛観みたいなものも。まあ面白いから構わないのですが、豚の比喩にこだわる自己分析における幼少期の記憶。
母方のおばあちゃんちに遊びに行くと叔父が東南アジアの女性を囲って(って表現は語弊がなくもないんですが)いたとか。しかも、もともとはそこには豚小屋があったのを彼女たちが住めるような掘立小屋になっていたのだそうな。で、そういう人は雇用者に割とひどい扱いをされるのが定番で、例にもれずそういうパターンだったのですが彼の祖母がいい人でなんやかんやそこで暮らしていたらしい、女性たちは。
かと思いきや話は紀元前三世紀の思想家である荘子の話になる。比喩や寓話を使ってアナーキズムを説いたそうな。で、その人の書いた「山木篇というのが引用されている。
書き起こすには手間なので、まとめた部分だけを引っ張れば「無限の生滅変化の繰り返しを受け入れることこそが自由無碍なのだ」ということらしいのである。「山木篇」の要約というか、その思想の発展としてそういうことが言えるってことなんですけど、さらに言えば「人をないがしろにしてまで既得権益にしがみつく糞は死ね!」ってことだろう。
でまあ、叔父さんの店はおねーちゃんたちに非道い扱いをしていたので案の定逃げられたり一部の輩がJK売春させていたりでダメになって借金まみれになったとか。ただ、一方で著者にとってはいい叔父さんだったらしく(その身内にやさしいというのがまさにマフィア的なんですけお)、色々と感謝している。相対的に自分の借金が軽く受け止められるようになったとか、おいしいものを食べさせてもらったとか。
で、さっきの荘子の話に戻ると生滅変化には三つの見方があって
一つは「いっさいは無である。なんにもない。」
二つは「物は存在するが、境界線やくべてゃ内。無限である。」
三つは「物の区別は存在するが、そこに価値判断をはさまない。」
ということらしい。


⑬だまってトイレをつまらせろ――船本州治のサボタージュ

この最後の章で取り上げられているエピソードは、山谷のどやがいでの闘争の話と、それにまつわる船本州治という思想家の話。
山谷の話は著者の無能っぷり(ヴァイスさんリスペクト)と人情と世知辛さを思い知る。
船本という人物についてここで書かれているのは、彼の活動した60年代から70年代当初のフリーターをどうとらえていたかという部分。
当時はルンペンプロレタリアートという蔑称として呼ばれていて、定職についていない人は十把一絡げに差別的にみられていたのだという。で、船本はそんな彼らを肯定的に捉えなおす。
面倒なので書き起こしはしないが、201ページから204ページまで読めばよろしい。
そろそろ書いてきて疲れてきたのだけれど、ここで引用されている「サボタージュの哲学」の例は取り上げておきたい。
ある工場のトイレが水洗化され経営者がケチってチリ紙を完備しないときの振る舞いとして、ルンペンたちの取る行動として新聞紙などの固い紙で詰まらせるのだという。それ以外にも二つの方法が例示されているのですが、別にトイレ云々という問題ではなく、立場を理解した上での振る舞いの違いを明らかにしているのだ。
己を弱者として「固定」し陳情するパターン、自らを強者として誇示し対等な交渉を進めようとするパターン、そして現実の階級を恨み弱者であることを自ら認めそれによって駆動する者。
船本の資本主義を生産過程と市民社会に区分する見方は正しいと思えるし、フレデリック・ロルドンなる人物の言う工場労働をモデルにした社会のありよう(これ、アニメカービィでモダンタイムスのパロをやっていたのがそのまま当てはまるのが面白い)だったり、消費行動こそが近現代における人間的行動であるという価値観の植え付けが行われてきたことだったり。
ウェブレンもボードリヤールも消費の変化について論じていたけれど、そもそも消費を前提とした社会の在りように疑義を呈するべきなのかもしれない。

あとがき

はあ総括でありますね。最後に資本主義に中指をおったてて終わる。
正直なところ、自分はまだ勉強不足なもんで資本主義に石を投げることはできないし、生まれてこの方そのシステムに隷従して生きるように調教されてきているから不安な部分も大きいのですが、こういう人がもっと公に出てくれたりするといいのかもしれない。


そういうわけで、一万字オーバーという文字数にわたって書いてきて(ほぼ引用ですが)、おおむね同意していることは伝わったと思う。
実際、この人の書く文章は面白いし同意できる。のだけれど、この人は自分の思想を正当化するために論文や知識を援用しているようにも思えてしまうこともなくもない。タバコのとことか。それこそネトウヨ的に。
とはいっても、ネトウヨのような論拠も根拠も貧弱なそれではなく、ちゃんとした資料に基づいているので一緒にしては失礼なのですが、自分にもそういう部分が往々にしてあるので気になるのです。だから、その真偽を見定めるためにもやはり自分で学ぶ必要がある。
チョムスキー先生は「評論は俺に任せろー(バリバリ)」と言いますが、やっぱり私は不安なので手の届く範囲で勉強したいと思います。


多様化を歌いながら、なぜ働かないという価値観はダメなのか?それを考えることから始めたっていいのに。
もちろん、それをいいように使って「殺人も認める」という価値観も受け入れろ、と明後日の方向に飛躍させる輩が出現しかねない。残念ながらそれをロジカルに反駁する教養は私にはないのだけれど、まあしいて言えばひとつは多様性がなくなるからだ。一人が殺人によって死ねば、多様性がひとつ失われることになる。多様性を認めようにも認められなくならから、ダメだよね、という話。
第一、殺人が肯定されれば種の存続が危ぶまれるわけで。

よく考えるとおかしいことというのは色々あって、たとえば、生きていたらその人が生み出していたであろう価値を経済という枠組みで絡めとろうとしてくるけれど、じゃあ経済ってなんだよ?
私に言わせれば、働くということは、ほとんどの場合が怠惰に他ならない。
保守速報の例をとるに、普通なら、たとえそれが嫌悪を抱く相手でも悪罵をなげつけるというのは苦しいものだ。けれど、それが金のためとなると容易に自己正当化される。さらに、ネットの発達によって本来ならば痛痒を感じるはずの部分がフィジカルなコミュニケーションを欠くことによってそれを加速させている。
罪悪感を上塗りしてしまう。


ともかく、これだけは言える。
ニートやひきこもりこそがロックであり勇気ある革命者なのだ。
だから私は、声を大にして言いたい。あなたたちは忍辱な勇者なのだと。
世界の引きこもり・ニートたちよ、立ち上がるな!鎮座せよ!立ちて死するな、伏して生きろ!