dadalizerの読書感想文

読んだ本の感想(誤謬アリ)を綴るブログ。オナニープレイ。

待たせたな

誰も待ってねぇよ、というセルフツッコミもそこそこに久しぶりに読書感想を書こうと思い立つ。
実のところ一ヶ月前には一冊読み終わっていたのだけれど、すぐにほかの本に手をつけていたがために読み終わらず、しかもブックオフで年末年始のセールがやっていて余計に読みたい本が増えてしまう始末。しかも直木賞芥川賞の候補になった小説にもいくつか気になるのがあってもうてんてこ舞いです。
そんなわけで積ん読本がどんどん増えていくので、とりあえず少しでも書き下しておこうと。

で、今回読んだのは海外の児童文学と評論文。
児童文学の方は「ぼくが消えないうちに」という本で、作者であるA.F.ハロルドの邦訳本はこれが初ということ。出版は一年以上前ですが中古はあまり見かけないですね。児童文学ってわけで挿絵だったり表紙がモロに絵なんですけど、結構この絵柄好きなんですが、挿絵を担当した(挿絵は今回が初らしい)エミリー・グラヴェットはイギリスを代表する絵本作家なのだとか。わたくしめはこの本で初めて彼女の存在を知ったのですが、邦訳数はともかく2007年には邦訳された絵本が出版されていたので少なくとも10年前には注目されていた模様。情弱なり。

この本はいわゆるイマジナリーフレンドを題材にした本なのですが、まえがきを読むとハロルドもエミリーも幼少期にイマジナリーフレンドが見えていたのかな、と。だからこそ、この本を書いたのだろう、と。冒頭に添えられているクリスティーナ・ロセッティの詩がこの本の全てを表しているといっても過言ではないので、ぶっちゃけそこを引用してしまえば作者の思いみたいなものはわかる。内容は一種の冒険小説というか、2分間の冒険的というか、子どもの想像力を大人が代弁しているとでも言いたくなる「想像力の本」であると。
それと記憶の物語でもある。読んでいてワクワクする場面もありますし、思わず涙が出そうになる場面もありますし、「今はなき古き友への弔い」としての物語でもあって、そこは素直に泣けるんですけど、いかんせん「トゥモローランド」な選民思想が見え隠れしてねぇ・・・。
劇中に登場するイマジナリーフレンドの一人であるエミリーがこう言うんですよ。
この子どもたちってね~中略~見えないお友だちが必要だったり、ほしいと思ったりしてるのに、つくりだすだけの想像力がないの。それができる子は、めったにいないからね。ほんとに輝くほどの、すっごい想像力を持ってる子だけだから
この本の世界ではイマジナリーフレンドの集まる世界みたいなものがあって、主人公のアマンダのイマジナリーフレンドであるもうひとりの主人公のラジャーが、イマジナリーフレンドの先達であるエミリーにイマジナリーフレンドがなんたるか、という説明を受けるシーンでの台詞なんですよね、ここ。
いやいや。いやいやいや。それじゃ子ども万人が想像力を持つっていうメッセージにならんのですよ。いやね、最初からそういうメッセージを伝える本じゃなくて、あくまで個人的な体験に基づく個人に向けたフィクションとしての側面が非常に強いので、そのメッセージを発することがこの本の中で何か矛盾をきたすとかそういうことではないんですけどね、児童文学でそんな非情な一面を垣間見せなくてもいいじゃんすか。
内容が好きなだけに、こういうちょっと選民思想な部分がちょっと鼻につくんですよね。好きな描写とかは結構あるんですけども。真っ暗闇になった瞬間の表現としてページを真っ黒にしたりとか、文章だけじゃなくて本全体としての表現もかなり秀逸で手が込んでいるので、普通に読む分にはいいんですけど、コンプレックスをこじらせた自分が読むと作者の(あるいは邦訳者の)悪意なき蔑みみたいなものが垣間見えちゃって煩悶としちゃうんですよ。

それでも、やっぱり文章表現として気に入る部分も多々あって「冒険、というよ冒険の足がかりを失いたくなかったのだ(だれかに話しかけられたときに、読みかけのページに親指をはさんでおくのとおなじだね)」
とか、「ママの指先からまっすぐに洋服ダンスまでのびている、目に見えない線をたどった」とか、そういう些細な挙動や動作や状態なんかを小説ならではの言葉の妙で表現されたものが自分は好きなので、そういうのがそこそこ見られて良かったですしね。
減点方式だとかなり下がりますけど、加点方式だとかなり上がる、といった感じの本でした。

評論N方は「いじめは生存戦略だった!?」という本だったのですが、こちらは正直いって微妙の一言。何か新しい発見があるというわけでもないし、ほとんどが既存の論文の引用だし本全体としてのまとまりもないので全部を通して読むというよりは各章の気になる部分を読めばいいな、という印象。
ただ、意味不明なタイミングで挿入される説明になっていない説明図とか表とかは「ギャグマンガ日和」的なシュールな笑いがあります。個人的には「図1 つつかれてケガをしたニワトリ」というのが吹き出しました。いや、だって本当に必要ないんですもん、この図。絶対ページ合わせるために後から差し込んだだろう、という面白さがあります。
個人的には「文系の人にとんでもなく役立つ! 理系の知識」に次ぐダメな本(は言い過ぎですが)で、まあ人にオススメするような本ではありませんね。ふいに笑えたりはしますが、知的欲求を満たすために手に取る価値はあるかというと、そうでもないですねぇ。とかいい付箋貼りまくってはいますが。
この本をきっかけに、というのはアリかもしれませんが、これ1冊で何か知見が広がるというのはなさそうです。

フィリップ・ジャンン:ELLE(エル)(原題:Oh…)

エルが原題だと思って「そんな雑誌あったなぁ・・・サーチングの邪魔になりそうだけど」なんて思ってたら原題はもっと妙ちくりんな、というかおそらくラストのミシェルのつぶやきが原文のタイトルなのかなーと思ったりしていて、カールじいさんの原題並に調べにくそうだなーと至極どうでもいいことを思ったりしたわけですが。
オリジナルがフランス語だから邦題をフランス語の「ELLE(彼女)」にした、というよりは訳者のあとがきから察するにバーホーベンの映画化タイトルが「ELLE」だったから邦訳出版の際にそちらに寄せたということなのでしょう。まあ、「アメリカン・スナイパー」のようにもともとが別の放題で邦訳されて出版されていたものを映画公開に合わせて「アメリカン・スナイパー」のタイトルで売り直したこともあるし、それ自体がどうというわけではなく、ただの備忘録的に書いただけで深い意味はなかったりする。

前置きはそのあたりにして、さらっと読書感想に行きましょう。
自分でもよく説明しづらいんですが、ともかく面白いです、はい。なぜ面白いのか、ということを説明するのが難しい気がするんですけど、部分的な要素を取り出すとすれば冒頭のミシェルが自分の怪我の状態について分析しながら、息子や母親や元夫についての日常「的」風景の雑ごとに思考を割かれていくその様。それ自体の面白さと「ミシェルの怪我の理由」が明かされないまま日常「的」風景に突入していくことが、興味の持続に繋がっている部分はあると思う。もちろん、自分は映画の情報から原作を手にとったわけで、その怪我の理由を知っていたわけですが、それを勘案しても興味を引きつけられるわけです。
なぜなら、レイプ被害者(と記述するのがいささか誤謬がるように思われる)であるはずの彼女は、平然と日常に回帰しているからだ。と、書くとこれもまた正しくないように思われる。というのも、息子や母親といった彼女にとっての日常とのやり取りが描写される中で、やはりレイプによって負った精神的なダメージの描写が散見されるからだ。それだけでなく、物理的なダメージも。
その複雑で二元化されることなくレリゴーしている彼女の内面の描写こそが、この小説の面白いところなのではないかとわたしは思ふ。
単純な一人称形式であることからも、ミシェルの視点から物語を読み進めていくことになるわけですが、その場合に小説を面白くする要素が何かといえば、やはり彼女の思考そのものは外すことができないだろう。彼女というフィルターを通すことで小説の世界を認識する以上は、彼女が魅力的でなければならない。少なくともわたしはそう思う。
そこでいうとミシェルは魅力的すぎる。部分的な描写を抽出するとにべもない冷徹なキャリアウーマンとも思えるのだが、また別の段落では子ども思いだったり厭悪していたはずの母親を失う悲しみに体調を崩していたりと、ともかく重層的なのである。文章中で彼女自身が自分のことを「私はあまりにも強く、あまりにももろかったのだ」と評しているように、一見すると矛盾しているようにも思える人物でありながら、その実は矛盾していない--というより、その矛盾こそが人間であるというごく当たり前のことを当たり前に描き、その一方でミシェルの不義理だったりあまりに大胆不敵だったりする性事情という異様な感覚を平然と落とし込んでいることが、この小説の面白いところである。と思う。
これまで読んできた小説はかなり人物が一面化されていたり、あるいは事件・事故などの状況の変化に対応することで物語を進めるタイプの小説が多かったのですが、「エル」に関してはそういう印象はまったくなく、ミシェルという人間(設定・人物関係を含め)を描くことで物語を紡ぎ、そこに付随する形で状況があるといった感覚。だからこそ、レイプした犯人が判明した後もその犯人と交流を泰然と持ち続けるのだろうし。しかも、ひどくいびつな形でその関係が変化するという。
つまり、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」や「20th century women」と同じようなタイプの小説なのではなかろうか。メディアの形式は違うし、内容そのものもかなり違うんですけど。
むしろ、自分ごのみのタイプのモノを映画ではなく小説という別の媒体で触れることができたからこそ、この新鮮な喜びがあるのではないかと。
映画がどうなっているのか、実はまだ見ていないので知らないんですけど、映画の方も気になる。「エル」を邦訳した松永りえ氏のあとがきを読むに、原作とはややテイストが異なるということらしいので。
しかしまあ、なんというかこれといって難しい言葉を使っているわけでも難解な部分があるわけでもなく、それでいて複雑なものを描けるというのは中々興味深いというか。まあ訳者の手腕という部分もかなりかかわってくるので、あまりそこに収斂してしまうのも危険ではあるんですが。

うん、文句なしに面白い小説ですよ。最後の部分の解釈は、ちょっと自分には自信がないんですが。

日本の軍歌 国民的音楽の歴史

辻田真佐憲著の評論文。
どんな本かといえば「軍歌って何よ?」という本である。かなりざっくりしているけれど、主に第一次大戦前後から作られた日本の軍歌の衰退までを時系列的に解き明かしていく本です。
当時の軍歌がどういうものだったのかとか、実は思っているようなものではないのではないかという疑問を投げかけるものである。
特に興味があったわけではないのになぜか買ってしまった本なのですが、やっぱり興味関心の有無というのは読書におけるモチベーションにはかなり重要なものなのだと痛感いたした。

軍歌に対してまったく思い入れというものがなかったこともあって、著者の「軍歌は必ずしも戦争扇動や右翼的なものであったというわけではない」という主張に対して反発も同意もできず「ああ、そうなのか」という程度にしか思えなかったのがまず第一の蹌踉。
とはいえ、興味深いのはエンタメとして消費されるものと見た場合に軍歌が辿る道筋というのが、まさにエンタメ業界の構造そのもの(というか市場経済の力動か?)といった感じで面白かった。著者はエンタメ市場の流れを先に知っていて軍歌をエンタメとして位置づけようとしたのか、それともその逆なのかそこまではわからないが、まさにエンタメとしか言いようがない。
どういうことか。つまり、何かが流行る→無数のエピゴーネンが生まれる→衰退するという大きなサイクルにぴったりしているということ。もっとも、軍歌が消えた根本的な理由はひとえに戦争の放棄にあるわけですが。形を変えて当時の軍歌が生き延びてはいても、これから新しく軍歌が作られることは少なくとも北朝鮮が錯乱しなければありえないでしょうし、仮に北朝鮮がしかけてきたとしても日本が積極的に参戦する未来は想像しづらいですし、やっぱり新たな軍歌は生まれにくいというのはある。
そもそも、戦争のあり方そのものが変容してきているわけですからね。

途中経過

 えー目下のところ一冊読んでいる状態です
 が、いかんせん読むのが遅い・理解が足りない・集中力が持続しない・合間合間に読むという四重苦(最後の一つは怠慢だぎゃ)を背負っているのでまーこのブログの更新頻度が少ないこと少ないこと。
 これではちょっとアレだなーと思い、機を見るに敏という言葉が意味するように途中経過を書こうと思った次第です。何が機なのかというと、面白い文章を読んでいると「ナニカカキタイ」衝動が沸々と泡立ってくるので、そのモチベーションがはじける前に手をつけてやろうということですな。
 今読んでいるのはエリック・グリーン著/尾之上浩司+本間有・訳の「猿の惑星》隠された真実」でありますです。
 ちょうど第二章が読み終わったところなのですが、よく考えたら猿の惑星シリーズをまともに観たことがないことに気づき(一作目は観たことあるけんど)、「続・猿の惑星」の話が出てきたあたりからその弊害が表面化しまして微妙に詰まっていたりする。弊害というのはまず単純に映画を観たことのある前提で進んでいきますから、ネタバレを食らうということ。ウン十年前の映画にネタバレも糞もあるかいと仰る方々もいらっしゃるでしょうが、そりゃ気になるでしょうよ。そこには処女と非処女・童貞と非童貞に匹敵する絶対的なボーダーがあるのですから。
 そうでもないか。作品によるな、うん。この例えもおかしいし。
 二つ目の弊害は歴史に疎いということ・・・はまあでも別にそこまでアレなんですが、猿の惑星のスタッフや原作者などについては知っていないと名前と行動などには言及されますが具体的なイメージがわかないのでちょっと毎回名前を調べたりしないといけないので、それも読むのが遅くなる原因の一つかも。あとチャールトン・ヘストンが当時どういった印象を大衆に与えていたのか、という部分とか。これもまあ一応説明はされますけど、やっぱり向こうの事情について知っていた方がより理解はしやすいだろうし。
 でもまあ、だからこそヘストンの起用についてとか、その効果とかを論してくれているので評論としてはしっかりしているんですが。猿の種類によって人種構造や権力構造が違っているといった部分や、映画本編に至るまでの変遷や脚本の移り変わりなどなど、その裏側をしっかりと書いていくれているので「そーなんだー(このcm最近見ないな)」となること請け合いです。

 で、どうやら第三章から三作目の「新・猿の惑星」がそれ以前とそれ以降のシリーズの分水嶺になっていることに触れつつ本格的な解説に入っていくのですが、その前に本編観といた方がいいんでねーかという気がして止まっているんですよね・・・。

 今度新作やるんだし、GyaOかどっかで新作一気に無料公開してくれんかな・・・やるとしてもジェネシス・とライジングだよなぁ。いや、映画としてはむしろこちらのほうが好きなんですが(旧シリーズは1しか見てないので比較はできまへんけど、多分超えてくることはないだろう)。

 

遠藤周作:沈黙

 スコセッシの映画を観た直後に文庫版を買って九月頭に読み始めたから、購入から読書開始までに半年以上の間隔があったということになる。いや、他にも本を読んでいて後回しにしていたからなんですがね。映画を見たテンションで衝動買いしてしまうことはよくあるんですが、買ったまま放置しておくことも多くて困ったものだ。
 
 さて、それでは読書感想をば。17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説であるこの「沈黙」ですが、まず普通に読み物として面白い。解説で佐伯彰一が言及しているとおり、構成の妙もあると思う。まえがきとして15ページに渡って小説の舞台となる時代の現状が、さも実際にあった歴史の概説のように語られ(実際、史実に基づいている部分も多々あるだろう)、主人公たるロドリゴ司祭の書簡として彼の主観から100ページ以上語られ、そこからはロドリゴをフィルターとして客観的に(半客観・半主観)世界が綴られていく。さながらザック・スナイダーの「ウォッチメン」のようですらある(こっちは映画だけど)。これはなかなか大胆な構成ではるのだけれど、「十頁だけ読んで~」の著者だけあって冒頭からなぜかぐいぐいと持っていきます。それもこれも、冒頭の一段落にあるだろう。以下に抜粋するぞよ。
ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルイエズス会が日本に派遣していたクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである。この教父は日本にいること二十数年、地区長(スペリオ)という最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。』ここからさらに『稀にみる神学的才能に恵まれ~』と続く。
 一文目から何かただならぬことが起こったことが伝わってくる。マンガ的に言えば、主人公の属する組織のトップクラスの人物が敵に屈服させられたということが告げられるわけである。個人的には「D.Gray-man」の元帥(名前忘れた)の一人が殺されたと報告されたあたりの衝撃に近い。あっちは序盤とはいえすでに物語がある程度進んだ段階だった(まあ週刊連載だし映画や小説のようにはいかんでしょう)が、こっちはそれを冒頭一発目に持ってくるのである。
 そして構成としてはその彼を救いに行く話であるわけだ。そりゃワクワクするでしょう。映画を先に観ていたわたしでさえもワクワクしましたもの。それを文章で魅せてくれるというのが、やはり読み物の面白いところだろう。
 とはいえ、これは小手先のギミックに過ぎない。この小説の真に面白い部分は、その内容そのもの、神の存在への問いかけ(途中までではあるけれど)にある。それを「沈黙」と題するセンスも秀逸(といってもこれは編集側の以降で筆者は「ひなたの匂い」としようとしていたらしいですが)。それをカトリックであり聖書的宗教的知識をも持ち合わせている遠藤周作が、司祭を主人公に据えてメタファーなどというのもなしに真正面から描いたところがまた、ほかの類似テーマを持つ作品とは異なるところだろう。
 私自身は無神論者で宗教とはまったく無縁の人生を歩んできた標準的日本人ではあるものの、「神がいたらいいなぁ」と思うロマンチストでもある。もちろんカトリックだとかプロテスタントだとかもよくわかっていない。それでもこの「沈黙」をパンピーのわたしが面白いと思えるのは、前述のとおり「神」というものの存在を人間の営みの中から問いかけること(というかその人間の営みの描写そのもの)が痛烈に胸に響いてくるからだ。
 なんですが、「神はいるのかいないのか」というのはロドリゴが本作を通じて自問自答することではあるけれど、実は彼が「転ぶ」あたりから問題は転化(というか昇華)しているんじゃなかろうか。
 というのも、ロドリゴがまさに「転ぶ」その瞬間に彼は「あの人」の顔を思い浮かべますし、「いるいない」ではなく「どう在るのか」という問いに焦点が当てられているように見える。
 随所に描かれるロドリゴの内面が人間が普遍的に持っている部分であるため、人種を問わず彼の中に埋没していってしまう。自己欺瞞や自己正当化などなど、個人的には179p・219p・223p・225p・240p・256p〜のあたりはかなり気に入っている。ほかにも172pの「司祭が」論破した気になって優越感にひたるとこは、どうしようもなく人間的だったりして身につまされる。
 一本筋の話で、ともすれば単調であるにもかかわらずぐいぐい引きつけてくるのはひとえに彼の実力であろうし、スコセッシもそれは同様だろう。
 
 スコセッシの、小説にはないあのラストの意味をもう一度考えてみる。

 あくまで感想ではありんすが、読み違えている部分も結構ありそうなんだなぁ・・・

武田砂鉄:コンプレックス文化論

 タイトル詐欺じゃないのだろうか、これ。だって全然文化論じゃないんだもの。コンプレックスを持った著名人にインタビューしたものを掲載して、それぞれの章に強引なこじつけのような前書きと後書きを加えたものだ。だから、なんというか、私が思っていたような精神分析だとかそういった体系的にまとめられたものではない。
 や、ちゃんと調べもせずにタイトル買いした自分の落ち度なんですが、思ったのと違うものだった。だからといって読み応えがないかというと、そうわけでもないのだけれど。
 特にインタビュー以外の部分での著者のかさ増しとも思える考察もといこじつけが面白い。純文学とか古典映画とか、それっぽい作品をいちいち援用してくる部分とか、本の雰囲気と合致していていい意味で小賢しい。
 あとはインタビューの中でちょいちょいメディア批判めいたものが図らずして浮かび上がってくるのも、インタビューとかエッセイとかあまり読まない自分にとっては新鮮だったかな。
 とはいえ、論拠が全体的に一般論への共感という部分で成り立っているため、科学的にとか学術的にとか、そういう自分の期待した部分は皆無なのでやっぱり肩透かしなのは否めないかなぁ。
 あとはまあ、インタビューという形式上しかたないのかもしれませんが、インタビュアーのスタンスが尻軽なんですよねー。相手に気持ちよく話してもらうためにヨイショはやっぱり必要なのでしょうが、この本みたいに別の人物のインタビューを連続で読まされるとどうにも浮薄な印象がして、コンプレックス持ちの自分としては少なからず反感を抱かなくもない。
 この辺のバランスって、案外難しいのかもしれない。記者会見なんかみたいに、ある特定の答えを導こうとするのもそれはそれで誘導尋問でしかないので不快なのだけれど、ともかく相手を気持ちよくさせるというのも、やっぱりどうかと思う。
 ていうか、コンプレックスがあったから云々ってカオス理論のそれとしか思えないので、やっぱりこじつけという気がして著者の意見はあまり信用できない。前述のとおり尻軽スタンスだし。たしかに、こと芸術方面ではコンプレックスやトラウマといったものが重視されることは多い。ガチでトラウマを植えつけられた人なんかは、脳の防衛機制の面からそういう風なりやすいというのは一応科学的な論拠としてあるにはあるのだけれど、この本に登場してくるのはそういうタイプではない気がするしなぁ。
 まあ読んでいて面白いものではあるので、自分みたいにひねくれてない人は単純に笑える読み物として受け止められるんじゃないかしら。

 リア充が上から目線でコンプレックス持ちを半笑いで睥睨する、見世物的な読み物としては秀逸だと思う。うん。だから、平均的なリア充こそこぞって読むべきかな、これ。

ジャンキオン=バロウズ

 誰がわかるんだこのパッチワークタイトル。
 わかってくれた人は間違いなくギーク&ナードの複合ですので社会不適合者の可能性がアリ。

 どうでもいい(どうでもよくない)ことなんですが、本当に本を読むスピードが遅いのが嫌になります。それ以上に、本を読むのってかなりの能動性と集中力と体力を要するので手を付けることそのものが割とハードルが高いのである。
 そんなわけで、文庫で300ページもないウィリアム・バロウズ著「ジャンキー(鮎川信夫訳)」の読了に一ヶ月要することに。どうでもいいけど予測変換で出てきた雀鬼ってかっこいいですね。
 20世紀アメリカ文学界に名を刻んだ鬼才の処女作ということらしいのですが、わたくしは「裸のランチ」のタイトルだけは知っていながらバロウズの本は一冊も読んだことがなかった。というか、ほかの有名どころの著作だって読んだことないのですが。
 で、どうだったか。うーん、この作品を評価する場合は出版当時の時代背景を考慮してタブーを赤裸々に綴った挑戦的な作品という前提を知っておかないといけないのでしょうが、今この時代に読んだ身としてどうかというと、別にそこまでという感じ。
 ほとんどジャンキー(回復不能麻薬常用者)の自伝ではあるのですが、自伝ゆえに映画のような物語的な展開とかは別に面白いものはなかったりする。ていうか体験談の羅列のようなもので物語とかそもそもあってないようなものでしょう。アングラーの体験記というか手記のようなもの。タイトルどおりのジャンキー描写。淡々としたトーンで麻薬の使用による中毒と回復を延々と繰り返していくだけなので、後半に進むにつれてどんどんマンネリになっていくのは拭えない。もちろん、その煉獄感こそジャンキーがジャンキーたる所以なので、繰り返しの日々を描くとなると必然的この構造になってしまうのだろうけれど。
 もちろん、同じことの繰り返しとはいっても細部は違う(使っている麻薬が違うので症状が違ったり、禁断症状だとか色々)。が、読む人によってはだからどうしたという以外の感想はでてこない。お母さんにとってウルトラマンが同じ顔に見えたりガンダムの違いがわからないのと同じで。自分も割とそんな感じだったりする。
 それでも、さすがは鬼才というべきか端々に自分のツボをついてくる表現がある。わたくし、小説に関しては物語そのものより表現の技巧とか美麗さを愛でるタイプですからね、基本。
 『彼の顔は、その目とは無関係な苦悩にくまどられていた。それは彼の細胞だけの苦悩だった。彼自身――そのどんよりとした、油断のない冷静なごろつきの目からのぞいている意識的な自我――にとっては、この打ち捨てられたもう一人の彼自身の苦悩、肉と内蔵と細胞の神経系統の苦悩は少しもあずかり知らぬところなのだ。』
 こことか、肉体と自我意識の解離描写がすごい絶妙。あとちょっと肉体に対して無責任な感じも言い訳がましくてすごい好きです。
 『女に冷淡なのを見てホモだと思い込んだ青年が、実際はホモなどではなく、単にセックス全体に対して無関心であるにすぎないとあとでわかることがよくあるのだ
 これもすごい些細な文章ですが、シニカルな文体と相まって笑みこぼれます。十中八九、バロウズ本人の経験談だろうし。
 『死は生の欠如』っていう短いフレーズも、死があくまで主体になっている表現でシニカルでニヒルでダダイスティックなジャンキーらしい一文だと思います。や、原文知らんのですけど。

 それ以外だと注釈ギャグがボケ突っ込みみたいで面白い。個人的に注釈の文字はキートン山田で脳内再生された。
 『わたしは麻薬に親しんだことを後悔したことは一度もない。ときどき麻薬を使ったためにいまでは常用者にならなかった場合の自分よりも健康になっていると思う。人間は成長が止まるとともに死にはじめる。麻薬常用者はけっして成長を停止しない。たいていの常用者は周期的に麻薬の習慣をやめるが、それとともに肉体組織の収縮と麻薬依存細胞の交替が起こる〔原著編註―これは医学専門家の見解ではない〕。』とか、バロウズの無知(というかアファメーション的願望かしら)に対する無慈悲な突っ込みとかが散見できて楽しい。
 正直なところ、あまり話は頭に入ってこなかったんですけど、ジャンキーってどうやって金を工面しているのかもうちょっと知りたいという欲求はあったり。
 
 ぶっちゃけた話、単純に読んでいて面白いという意味では本文よりも解説とあとがきのほうが面白い。
 訳者は『接した人々等はすこぶる多種多彩で~』なんて書いているが、これって皮肉じゃないのか(笑)
 解説にある「はずみとはいえ妻(バロウズは同性愛者ですが)を射殺した直後に書き始められた」という文章も色々と境遇を考えるとホロリ。原著には巻末にジャンキー俗語用語集がついているらしいので、正直日本版もそれ訳してほしかったりするんですが、まあ今なら割と簡単に手に入りそうだし機会があれば自分で買うか。

「覚書」

 ジャンク・ホッグ:人一倍多量の麻薬を使う常用者。一日に5グレイン以上使うと、この暮らすに入る事になる
 しまいこむ:自分の麻薬を用心深く隠すこと
 お蔵を開けてやる:ほかのジャンキーが隠している麻薬を失敬すること
 お前の背中には老いぼれザルがしがみついているんだろう?:麻薬を常用しているのだろう?
 ズート型の服装:肩幅の広い長い上着とだぶだぶですその狭い長いズボンからなる服装
 ポット:ヒッピー用語。マリファナの意
 ツイステッド:同上。ダメになること
 クール:同上なんでも好ましいことや、警察の目を引く危険性がない状態を意味する万能語。反意語にアンクールがある。