dadalizerの読書感想文

読んだ本の感想(誤謬アリ)を綴るブログ。オナニープレイ。

文章量が正義なのは小中学校の読書感想文まで

である。
とかく、私のような貧乏性な人間は本の値段と本の物理的なボリュームで購買の有無を判断しがちである。
もちろん、ページ数によって値段が変わってくるということは普通にあることだし、それ自体はことさら取り上げることでもないのかもしれない。それに、文字数が少ないとそれだけ表現の幅が狭まってしまうということはあるだろうから。特に公的な書類だったりするときには。
ただ、ふと思った。中学生の頃の夏休みの宿題で読書感想文が出されたときのことだ。
友人の一人が読書感想文の対象本として「エルマーのぼうけん」を挙げたのである。当時の私やほかの友人も「そりゃねーべ」「ダメでしょ」と野次を飛ばしていた。
クラスが違ったのでその後どうなったのか具体的には知らないのだけれど、ここで私が言いたいのは「なぜ当時の私たちは絵本を読書感想文の本として認められないと思ったのか」ということである。
もちろん、それは媒体的な違いもあるだろう。絵本は漫画ほどでないにしろ視覚的な側面を多分に含むものだし、いわゆる散文などに比べると相対的に文字の量が少ない。
しかし私は、どうも後者の部分がこの読書感想文という宿題においてしがらみになっているように思えるのである。
じゃあ、ゾロリはどうなる。あれは確かに絵本ではあるが、絵本に比べると文章の量も多い。それに、小学校のときはゾロリもありだったような気がする(うろ覚え)

要するに、文章の量という部分で価値判断が左右されすぎるきらいが(少なくとも自分の中では)あるということdes。もちろん、そうでないことだってたくさんあるし、文章量もあって内容も伴っているものだっていくつもある。
しかし、今回の本はその自分の価値観の誤謬に改めて疑義を呈してくれた本だった。

ジャッキー・フレミング 著/松田青子 訳:「問題だらけの女性たち(原題:THE TROUBLE WITH WOMEN)」です。

この本は言ってしまえば絵本のような形式になっていて、1頁ごとに絵があって、その絵に対する歴史的フェミニズム的な視点のアイロニカルな言葉が添えられている本なり。
例えば最初のページ(厳密には違うけれど)にはひげもじゃの紳士が虫眼鏡を使ってテーブルの上にある小さなものを覗き込む絵が印刷されており、絵の上に「かつてせかいには女性が存在していませんでした。だから歴史の授業で女性の偉人につて習わないのです。男性は存在し、その多くが転載でした。
と言葉が添えられている。
とまあ、こんな感じに一言二言あるいはもう少し長い文章もあったりはしますが、どれだけ長い文章でも1ページの文章を読むのに20秒もかかりません。
しかし、皮肉で満ちたその短い文章のそれぞれの中には女性の抑圧の歴史が刻み込まれています。
元々歴史は苦手な科目ではありましたが、しかしそうでなかったとしてもこの本の中に出てくる女性の中でわたしが知る名前はヴィクトリアくらいだったでしょう。
しかし、それに反してこの本の中に出てくる男性の歴史上の偉人はダーウィン、ルソー、ピカソ、カントなどどこかで名前を聞いたことのある人物ばかりです。もちろん、キュリーなどの女性の名前もあがりますが、「無知な私でさえも知っている偉人」が明らかに男性側に偏っているということを改めて認識させてくれるわけです。

この本は、しかし物悲しくもある。というのも、この本の中では黙殺されたあるいは語られる機会を剥奪された女性の名前がその行動・行為・功績とともに挙げられる。しかし、男性偉人に関しては特にその功績や行為について直接的に言及されることはない。つまるところ、これは男性偉人の名誉や功績を普遍化された自明の事実であることを認めているのである。それ自体が一種の皮肉にもなっているのだけれど、それに対して説明を付記しなければならない女性偉人の認識の不全を際立たせてもいる。この構造が、悲しい。少し、体を張る女芸人にも似ている。気がする。
そして、その功績が自明なのだから、わざわざ言及はせず、それゆえに功罪の罪をひたすら晒し上げるという体裁になっているのである。

かといって、肩肘張って読むような本ではない。むしろ、イラストとアイロニーに満ちた文章の可笑しさに笑えばいい。笑って、冷静になって、考える。サウスパークのようなものだ。あちらほどの爆発力やユーモアは期待してはいけないけれど、また別の視点を与えてくれるだろうから。

最後に、個人的に一番好きなページを載っけておきます。

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このダーウィンを見る彼女の顔が個人的にツボ。ここに至るまでに男性側の「なぜ女性は~なのだろう」という恐ろしいマッチポンプ男根主義な盲目さで、本気で言っているのであれば狂っているとしか形容のしようがない流れからのこのページだったために、普通に笑ってしまいました。

雨宮処凛 著:「女子」という呪い

なんか律儀に書籍名と著者の名前を記事のタイトルに持ってくるのってすごくつまらないなーと今更ながら思ったり。
しかしこんなブログでも読んでいる人がいるということを意識するようになると、多少なりとも気を遣うようになってしまうというのがワタクシ的にはすごくジレンマな部分だったりするのです。当初はただ思ったことを吐き出すだけのゲロリンオナニーブログでしかなかったので・・・。

金曜日に観てきた「犬ヶ島」の感想に先に着手しつつ、なんだかいまいちまとまらないので読書に逃げた結果、どうしてもこの本を読んでいて色々と思ったことがあったのでこちらを優先することにしたのですが、余計にまとまっていないような。
まあ書評じゃなく感想ではある(というエクスキューズ)ので、とっちらかっても和田のアキ子が歌うように笑って許してほしい

そんなわけで今回読んだ本は雨宮処凛さんの著した「「女子」という呪い」です。
この本を手にとった経緯は忘れてしまったのですが(ていうか、そもそも本を手にとった経緯とか必要なのかしら?)、この本自体は自分にとって価値のある一冊ではありました。
本に限らずわたしが何かに触れるときは、それが「新しい世界を見せてくれるか」どうかが価値の判断基準になっているので、好悪や世評などとは別に軸があったりする。だから嫌いなものであったりへっぽこなものであっても、それが自分の知らないものであれば価値のあるものになる。って、そんなこと誰でもそうかもしれないけど。

では、この本の何が私に「新しい世界を見せてくれ」たのかというと、それは本のタイトルにあるとおり社会に蔓延する「女子」の呪いだろう。とか書くと、なんだか自分の中でモヤモヤする部分があるのだけれど、とりあえずはそういうことにしておく。
雨宮処凛さんについてはまったく知らなかったのですが、どうもわたしが現在進行形で学んでいる分野で物書きをしているっぽい。というか、この本から察せられるこの人の経歴を考えると、この人自体もわたしの学んでいる領域にかなり関連してきていて、思いがけない拾い物をした気分になる。あるいはシンクロニシティ的というか。
また、中身をそこまで知らない状態でこの本を手にとった割に、日大タックル事件や安倍ゲート関連とも繋がってくる問題提起が図らずもこの本の中でされていて、そういう意味でもシンクロニシティ的ではありました。

さて、前置きが長くなりましたが本について書いていきましょう。
この本の構成としては大きく4部に分かれており、さらにいくつかの章立てがされています。

1:オッサン社会にもの申す
 紫式部の時代にもあった無知装いプレー問題とは?
 「男らしさ」という勘違い
 キレる女性議員、のんきな「ちょいワルジジ
 「男」と「女」を入れ替えてみる
 藤原紀香結婚会見の怪
 40代単身フリーランス(私)、入居審査に落ちる
 理想の結婚相手は「おしん」だとさ
 大震災で露呈した昭和のオッサン的価値観
 「ロボットジジイ」と非実在女性

2:女子たちのリアルな日常
 持つべきものは、看病し合える女友達
 「迷惑」マイレージを貯めて孤独死に備える
 アラフォー世代、おひとり女子のリアル
 「若い」って、面倒だった 愛と幸福とお金と身体、その他もろもろ
 女地獄における比較地獄
 必殺! 困った時のフランス人
 化粧する女、化粧する男

3:「呪い」とたたかう女たち
 AVで処女喪失したあの子の死
 メンヘラ双六を上がった女
 雨宮まみさんの訃報
 彼女がレズ風俗に行った理由
 若い「おじいさんとおばあさん」のような関係
 セーラー服歌人・鳥居との出会い

4:「女子」という呪いを解く方法
 世界の「女子」も呪いと闘っている

あとがき(?):なんだ、みんなおかしいと思ってたんだ


以上、上記4部(第4部は分量的に少なめ)にわかれているんですが、著者の経験談がすべての章に通底していて、あまり章ごとの区切りは感じられない作りになっていました。だからどうってこともないんですけど。
ちなみに、まえがき的に「すべての生きづらい女子たちへ」というのが本書の書き下ろしとして追加されています。どうやらコラムなんかを一冊にまとめた本らしいです。
あとは実際にあった事件や事例から男女を相対化、著者の書くところのミラーリングを行うことでいかに現代日本のシステムが病理に蝕まれているかということを、様々なところからデータや言葉を引用しつつも、主にエモーショナルに綴っています。なので、「そういう感情的なところが鼻につく」というタイプの人も一定数はいるだろうなぁ、という文体ではあるかもです。まあ、そうでなくともこの手のテーマは批判(というか、やっかみ?)されがちですからね。主に男性から。

ページとしては220くらいで文字も硬い文章でもないのでかなり読みやすいです。ただ、この本の前に読んでいた本が380ページで文字もやや小さめだったので、相対的にザクザク読み進められたというのもあるやも。

第1部を通してで述べられているのは、いかにこの社会の中に男性優位のシステム、あるいはミソジニーが根付いているかということ。セックスレス・介護・家事育児(から生じるイクメンという言葉が本質的に有している女性蔑視の視線)などのワードをキーにしていたり、勝手に値踏みしていたり・・・ともかく女子がいかに男性の振る舞いに憤りを感じているかが痛痒とともに伝わってくる。

この本の中では著者の体験や著者の友人知人などの身に起こったことなどを具体例にしているのですが、「男らしさ」という勘違いの章の「多くの女子を黙らせる一言」の項目で引き合いに出される、避妊しない自慢男の話はドン引き。
少なくとも、わたしの男友達の中で彼女から生理不順を聞かされた人たちはみんな不安に駆られていたぞ。まあ、不安に駆られるくらいならゴムつけろという話ではあるのですが、裏を返せばそれだけのおおごとであることを理解しているということでもあるのだと、この章の避妊しない自慢男の話やたまにニュースになる赤子を捨てた若いカップルの話などを見るにつけて思う。
ほかにも「GG」なる雑誌のことや、日本語のわからないアジア系の女性にトイレで妊娠検査薬の見方を尋ねられた話、72人の処女(イスラムだしソロモン72柱とかかってたりするのだろうか)の話とか、フェミニズムという視点を除いても純粋に面白い(とか書くと不謹慎だろうか)話が多い。

しかし、いくつか説得力に欠ける部分もある。たとえば「40代単身フリーランス~」の部分。まあ章のタイトルどおりのことが起こるわけですが、これは女性だからというよりもフリーランスだからという部分が強いのではないだろうか。もちろん、その裏には女性の賃金の低さという問題をはらんでいるのも事実ですが、ここで語られるのは女性云々というよりは主に貧困問題についてなので、あまり女子であることを押し出すのは逆に卑しい気はする。分けて考えろ、ということではなく、強調する部分を間違えると合意の捏造が生じてしまうから。

また、「大震災で露呈した~」の章について。下着のことに関しては「あぁーありそうだな」と頷いたり、衝立や女性が着替える歳の仕切りなどに関して、わたしはむしろ幼子を除いて完全に男女別になっているくらいだと思っていたので、そうでないことがむしろ驚きだった。確かに、避難民が体育館などで待機している映像はかなりそんな感じだったし。そのへんは特に問題なかったのだけれど、避難所で女性が炊事を担当させられた女性たちの点で、一つ疑問に思うことがあった。80ページで「1日3食を100人分つくり続け、リーダーに「疲れた」といったら「大変だな、それでは、かっぱえびせんですませよう」と言われた女性もいた。男性が交代するという発想がなかったのだ」という部分。
これ、女性たちが炊事をしている間は男性たちが何か外に出て何らかの土木作業などをしているのわけではないのだろうか。わたしは、てっきりそこで男女の肉体性によって仕事を振り分けているだけで、炊事以外の仕事を男性らがやっているのだと思っていたのだけど、そのへんは特に何も書かれていなかった。だから、少しバイアスが働いていないかという疑念が残る。

それと、1章「紫式部の~」では、女性側が無知を装うことで男性を立てて気を良くさせることを日本独自の女子の生きづらとして、批判している。その前に「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」という本を引用し、女性にいくつもの要求をしておきながら見えない枕詞として「男の後ろでな」がある(意訳)ことを指摘している。
社会に蔓延るその暗黙の了解には首肯するのですが、一つだけ誤りがある。まあ、誤りというよりは単に射程の問題でもあるのですが、ここには「外国はこんなに素晴らしいのに日本はなんてダメなんだ!」という偏見に立脚する前提があるようにも思える。
著者はこの暗黙の了解を日本独自のものとして扱っているのだけれど、実を言うと59年にゴフマンがアメリカで行ったドラマツルギー役割期待の調査において、アメリカの女子大生がデートの相手になりそうな男子学生を前にするとき、彼女らが持つ本来の知性・技能・意思をあえて低く見せていたという結果を報告している。
つまるところ、これは現代になって浮き彫りになった問題でもなければ日本独自の問題でもないんですよね。この調査自体はフェミニズム的な視点から見たわけではないのですが、しかし半世紀前に指摘されていたことを未だに改善できていない、ようやく問題提起できたというところなのがフェミ的に後進国な日本らしいというか。そういう意味では著者の書きかたでも明確な誤謬とはいえないのですが・・・。高度経済成長とか、あの辺のことも大きく絡んできてはいるのでしょうし、社会システム論とか引き合いに出すとわたしには手に負えなくなるのでここまでにしておきます。

それともう一つ、バカというか無知を装うという技術は、実は男性も行っていることであり、それを免罪符にしているということもある。という視点が含まれていたらなお良かったかなーと思う。とかいいつつ、これはどちらかというと人種の問題な上に英語の本なのでまともに読んだことすらないのだけど、確かwhite ignoranceだったっけか。


第2部と第3部は、第1部以上に個人的というか局所的な体験記だったり思いの色合いが強い。
「持つべきものは~」なんて性別関係なく、至極個人性な問題でしかないといえばそうだし。著者の言葉に従えば、この章はミラーリングしてもなんら問題はない。少なくとも字面上は。なので、女子の生きづらさというよりは厄介な友人問題でしかないので。ただ、著者はフェミニズムだけでなく社会福祉関連の問題も取り扱っているみたいなので、その流れから書いたのだろう。実際、そのあとの「「迷惑マイレージ」を~」の章では孤独死の問題と結びつけているし。
あとはまあ、過去の体験や回想や死者への思い出といった感じだろうか。風俗やAVなどの女児特有の問題を扱っていたり、東京というアーバンな街に対するコンプレックスとか、この辺は90年代当時を生きていた雨宮処凛さんの赤裸々な思いが曝されている。
こわれ者の祭典」とか面白そうなイベントの話なんかもあったし、ともかく私の知らない世界についてかなりたくさんあって、面白くはあった。
あと日本人の女性への若さ信仰とフランス人との違いとかね。
生物学的に見れば自分の情報を残す=子孫を残すことが知性存在(笑)としての人間である前に、生物としてのヒトの欲求ではあるはずなので、そういう意味では出産におけるリスクを減らせる「若さ」というのは重要なファクターであるとは思う。
ただ、この本で記される日本人男性の若さ信仰というのは、顔とかそういう表面的な若さへの要請であって、妊娠がどうとかという評価軸ではなさそうではある。
うーん、でもわたしは「正しく歳を重ねる」ことは素晴らしいことだと思うけど、若作りという行為も人間的で愛しいと思うけどね。うん、個人としじゃなくて人間のごうつくばりって意味で。書いてて思ったのだけど、折原臨也みたいで気持ち悪いなこの書き方。

第4部は韓国のフェミニズム運動やMeTooを用いて家父長制の社会体制への反旗を掲げ、世の女子を鼓舞するような文言が並ぶ。
最近は福祉関係で韓国や中国の話も出てくるし、特亜的にはとなりの国々の運動はやはり無視できないのだろう。

とりあえず最後まで読んで思ったのは、エロ漫画みたいなことをやるオジサンがそこらじゅうに溢れているということ。笑い事じゃないんですけど、笑ってしまうほどチンコに支配されているおじさんの話が何度かでてくるので。

読み物としては面白いし、世の女子の現状を知るための一冊としては手に取りやすいことは間違いない。反面、体系的に何かを知りたいといった重めの本ではないので、そこはまあ個人の裁量でしょうな。まあこのタイトルで体系的もクソもないのはわかることですが。


最後に個人的に「オジサン」について思うことがあったので書く。
ここに来ると伊藤の先見の明というか、表現者としての彼の筆致の饒舌さを振り返って再評価したくなる。雨宮処凛氏はこの本の中でオジサン=団塊世代の男という含蓄で書いている。それは間違いではないのだけれど、そこには物理的なちんこの有無で線引きしている節がある。最後の章で「権力を握る者」こそがハラスメント(ていうか普通に性犯罪なんだけど)を行うという旨の記述があるというのに、最終的に「オジサン」でまとめてしまうのは、まあ伊藤の筆力と比べるというのが酷であるとはわかっていても、ちょっと思ったことなので書いておこうと思う。
伊藤の述べる「オジサン」とは、その精神性を指している。以下引用。
認めたくないことだが、世界はおっさんによって動いているのだった。
何をいまさら、と言われるだろう。あるいは、女性だっているじゃないか、と言われるかもしれない。国会中継を3秒見ればそれくらいのことはわかりそうなもんだ。「生む機械」「健全な」発言の柳沢さん、あれについて女性の権利を云々、とか言葉尻捕らえてこのマスゴミ云々、とか右左いろいろ言い合ってはいるけれど、皆まずなによりあれがきわめて美しくない、という単純な事実を忘れているのではあるまいか。あれはきわめておっさん的発言であり、おっさん的思考なのだ。世の中には「おっさん」というきわめて美しくない、存在そのものが無様でいかんともしがたい生物が存在しているのであり、厄介なことに政治家になる人間というのは、多かれ少なかれおっさんを属性として持っている人間なのである。私に言わせれば、政治家になる女性もすべからくおっさんである。おばはん、ではない。あくまでおっさんなのである
。」

いやまあ、豊田議員のくだりを読むに、男性もといオジサンの精神性を内面化してしまったということを書いているので、単に陰茎の有無で語っているわけではもちろんないのですが、全体としては物理存在としてのオジサン批判に読めてしまう気がする。まー最近の神経科学分野でも肉体の重要性が説かれているので、肉体先行で語ること自体はむしろ現代的なのかもしれませんが。

そもそも、伊藤が指摘するまでもなくオッサン(本書ではオジサン)という存在が基本的には揶揄の言葉として日常的に使われているように、オジサンというのは醜悪な生き物である。思うに、ダンディとオジサンのボーダーというのは見た目以上にそういう精神性の部分が大きいのではないか。
日常の中にオッサンの生態を批判的に捉える言葉がるにもかかわらず、この世の中でパワーを握っているのはそのオッサンたちであるということの矛盾。女子に綺麗であることを求めるのであれば、男性諸兄はオジサンであることを恥ずべきではないだろうか。「俺、オッサンだから」と自虐的に口にしておきながらその実はオッサンであることをすでに分離不可能なまでに内面化しているがためにまったく気にかけていない。それが、このオッサンたちが優位な社会を作っているのではなかろうか。

以上は、本書に関する直接的な感想です。













P.S.
ここからはやっかみとか、直接この本に関すること以外で思ったことなので、読み飛ばしてもよかんべな文章。読み手への配慮は通常より皆無で、ほぼ内省と自問自答なので読む必要はないよ、という文章。

「付き合った男性が~」というワードを綴っている時点で、エクスキューズ的に「まぁ、それまでもまったくモテてなどいなかったのだが」とか書くのは卑怯千万だろう。というか、付き合ったことがある、という時点で「モテ」という言葉とかそのあとに否定の語句をつけるのは、真に恋人に類する存在ができたことのない憐憫者たちへの侮辱である。
自己卑下というのは、ある意味で「自分がこの世の最下層である」という驕りに基づいていることを私を含めた自己評価の低い人間はゆめゆめ忘れてはならないのである。
いや別に不幸自慢とかではなく、「上には上がある」という熟語を用いるのと同じように「下には下がいる」という言葉を使うべきなのではないかと思ふ。


それと、この本の中で「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」という漫画について触れられるのですが、実は私はこの漫画が嫌いだ。いや、嫌いとまではいかないかもしれないが、少なくとも苦手だ。ていうか、この手の漫画が。
この手の漫画、というのは、要するに「ありのままの姿見せるのよー(レリゴー)」しているだけの漫画だ。エッセイと銘打っている漫画であれば大丈夫(荒川弘のとか)なんだけれど、「さびしすぎて~」とかは苦手だ。多分、これがレポじゃなくてルポだったら多少は許せたのだろうけど、しかしそれがなぜなのか自分でもわからない。いや、一人称形式な時点でルポっちゃだめか。わからん。
これは前からある疑問なので、折角の機会なのでわからないなりに考えてみようと思う。
なぜ、私はこの手の「レリゴー」系が嫌いなのか。
考察した一つの考えとしては、それらの漫画は「漫画」という表現手法とは別の位相で評価されているからというもの。絵の上手さや下手さ、コマ割りとか、そういう「漫画としてどうこう」という以前の段階で「私は苦しいのです」という叫びをあげることで免罪符として機能し、すでに加点されてしまっているように思える。つまり、漫画で表現しているのにその手の漫画は漫画という表現とは別の部分で強固な評価軸があるのではないか。

映画界、特にアメリカのインディーズではマンブルコアという低予算ジャンルが一つ確立しているのだけど、こちらはむしろ低予算であるがゆえに工夫を凝らさなければならないために映画という表現において評価されているのとは対照的だ。
そこに何か溝のようなものを感じる。まあ、漫画は手軽ではありますからね、読む方は。だから、簡単に感動することに思考停止できるのかもしれない。感動ポルノ的、というか。
あるいは「切実に叫びつつ、結局は叫んだだけでフォークソングにしかなり得なかった」という、ある人の言葉をそのまま当てはめることもできるのかもしれない。

あとはまあ、自分の恥部を晒していることの下品さのようなものだろうか。つまり、これが漫画として描かれ市場に乗り経済システムの中に消費されることは、「「女子」という呪い」の中で語られたAVで処女喪失の彼女がロフトプラスワンで自分の身を切り売りしていたのと本質的に同じことのように思えるのだ。そこに主体か客体かの違いはあるのかもしれないけれど、システムに取り込まれている時点で客体だろうし、そう考えるとやはり同じでは・・・。
そこまでしてでも自分の苦しみを表現したい!そうしないと死んでしまう! それ自体はいい。だけど、わたしは自分の弱さや辛さをさらけ出すことに抵抗を感じている。
だってそれって、庇護欲を掻き立てる、いわば自分が不塾で何もできない存在であることを示しているだけじゃない。その生存戦略が成立してしまうことが気に入らないのだ。
学生時代、友人に「そういうキャラ」だからといってすべてを受け入れてもらえる人がいた。彼にはそこまで能力があったわけではない。ただ、何もしなくても人に好かれた。
けれどわたしは、道化になることでしか自分を表現する術を知らなくて、ただ弱いだけでいるだけでも受け入れられる彼が少し妬ましかった。自然とあだ名で呼ばれる彼が羨ましかった。わたしは苗字で呼ばれていた。なぜだろう。

わたしは、そんな恥ずかしいことはできない。そういう生き方を否定はしないし排他することもないけれど、絶対的に肯定できないし蔑んではいるし大嫌いだ。

どうして弱いことをさらけ出すだけで生存できてしまう人がいるのだろう。こっちは弱さを必死で取り繕って、ようやく生存できるというのに。多分、そういった感覚に近い。
しかし、そうなるとラップやブラックカルチャーはどうか。多分、それはマンブルコアと同じで、叫びを芸術の域にまで昇華しているからこの限りではないのだろう。

ただ叫ぶだけで評価されるというのなら、叫ぶにも値しない程度の瑣末な弱さの行き場はどこにあるというのか。


さらに言えば、さらけ出すことが是とされるこの寛容な社会の流れにも薄ら寒さを感じている。ソーシャル・インクルージョンはあくまで現実とし機能すればいいのであって、大衆芸術そのものを飲み込もうとしてはいないか。
世界はいつからそんなに優しくなったのだろうか。個人の体験を貨幣経済の市場に乗せて売買していることを優しさと捉えるのは難しいのだけど、苦しいことを苦しいというだけで価値を見出されるというのはやはり優しさというべきだろう。
「嫌なことは嫌だという」「ダメなものはダメだという」「正しくないものには正しくないと指摘する」。それは、社会レベルでは必要なことだと理解している。けれど、そんな潔癖でやさしい世界に不満を抱く自分もいる。
本来なら社会の流れに逆らうべきものが社会に包摂されていく気持ち悪さに似ている。ディストピアっぽいのだ。

ただ、不思議となぜ活字はこうならない。文字に比べて絵は演技性が高いからかもしれない。よくわからない、自分でも何を書いているのか。

なんてを考えていると、「シン・ゴジラ」で東京が火の海になっていく様子に感動のあまり涙したのも頷ける。怪獣(に限らないけど)が好きなのは、善悪とか倫理とか正義とか、そういうものを超越した絶対的な存在がそういうのを蹂躙してくれるからなのかもしれない。



それと、この本を読んでいて思ったのは、やっぱり自分には「壊れたい願望」があるのだということ。しかし、わたしには安心安全な設計のほどこされたブレーキが正常に機能しているがために壊れることができない。ていうか、普通に考えれば壊れることは良くないことだ。それこそ、この本に出てくる名も無き女子たちの中には壊れたまま死んでいってしまった人の話もあるわけで、本当に壊れかけた・壊れた人たちの前ではそんなことは口にできない。けれど、壊れることでその立場を得られるのであれば、その能力をその才能を獲得できるのであれば、わたしは壊れてみたい、と思う。
再生することができた雨宮処凛や鳥居やメンヘラ双六を上がった者たちのように。

なんて、ないものねだりをしてみるのだった。

アナ・マトロニック著・片山美佳子訳:ロボットの歴史を作ったロボット100

 4時間ぶっ通しで1冊の書籍を読み進めることができたのは本当に久しぶり・・・どころか、もしかすると初めてかもしれない。漫画を徹夜で読んだりしたことはあるけど、1冊というカウントはできないし、4時間の読書時間に耐えうる長さの1冊の漫画というのもそうあるまい。
 もっとも、読書時間に関しては単に「読むのが遅い」だけとか陽のあたる場所に移動したり姿勢を変えたりトイレ行ったり、本の情報をメモしたりとか、純粋に「読む」という行為から逸脱した行為が多かったということもあるのだけれど。しかし、そういうことを考えると一体どこまでが「読書体験」として勘定していいのかがわからなくなってくるような気もする。

前置きはこの辺にしておいて、今回読んだのは「ロボットの歴史を作ったロボット100」という本なんですな。本といっても発行がナショジオ「グラフィック」ですから半分以上を画像が占めているわけですがね。
これがどんな本かというと、本のタイトルどおりなんです。執筆者のアナさんが彼女個人の独断と偏見とロボットフリーク的な常識と歴史的な背景から100種類(実際はそれ以上ですが)のロボットを選んで紹介していく、という本でござい。
アマゾンの商品説明がかなり詳しかったのでそちらを引用させてもらいましょう。ちなみに、アマゾンのサイトでは中身がどういうふうに構成されているのかわかる商品内のページのサンプルがあるので、それを参照するとイメージがつきやすいかも。

↓↓↓

内容紹介

懐かしのロボットから、最新のロボットまで!
人類の友として、敵として、助手として、あの活躍にわくわくしたロボットが勢揃い。

ロボットを偏愛する著者が、古今東西のロボットからベスト100を紹介。ギリシャ神話から鉄腕アトム、実在する人物の人格を移植する試みのBINA48まで。
C-3POベイマックス、チャペックのロボット、アシモフ作品、ターミネーター草薙素子、データ、オートマトンAIBO、ビッグドッグ───。

かつて皆が胸を熱くしたロボットが活躍する物語。
夢物語から現実へと浸食してきたロボットについて、神話の時代から現在まで、数千年におよぶタイムラインからロボットのベスト100を選出。

前半ではギリシャ神話やSF小説、テレビドラマや映画などのフィクションに登場するロボットを紹介。
後半では、機械仕掛けの時計から、死後も生き続ける人格を完全に移植することを目指したロボットまで、科学者たちの挑戦と世界の現状を紹介する。

【目次】
◆はじめに
◆空想のロボットたち
・召使い、相棒、助っ人
・暴走する殺人マシンと人類支配をもくろむファシスト・マシン
・心を持つロボット
・兵器としてのアンドロイドとガイノイド
・自意識を持つロボット
・サイボーグ
◆現実のロボットたち
・初期のプロトタイプ
・未来が来た!
◆コラム
・アートとファッション
・電子ゲームとコミック
・音楽の世界のロボット
・ロボットが集まるイベント
・理論とトランスヒューマニズム

【著者紹介】
アナ・マトロニック
ミュージシャン、映像アーティスト、ラジオパーソナリティ。バンド「シザー・シスターズ」のボーカル。アルバムはオーストラリア、オーストリア、ドイツ、アイルランドスウェーデンでトップ10入り。
ロボットを愛するあまり、右腕にロボット回路のタトゥーを入れ、ロボットにインスパイアされたステージネームを名乗る。BBCラジオ2のクリスマス特番でロボットについて語る番組を担当した。日本ではスカパー! が2015年末に「アートナイト:アナ・マトロニック」を放送した。夫のセス・カービーとネコのイジーとともに米国ニューヨーク、ブルックリンで暮らす。

出版社からのコメント

ロボットの登場する作品は、テレビ、映画、コミック、小説と、あまたあります。きっとみなさんにも、すぐに名前が浮かぶ、お気に入りのロボットがあるのではないでしょうか。
著者がおそらく世界一有名なロボットのコンビだと書いているC-3POR2-D2から本書はスタートします。「機械仕掛けで動くもの」をいかに昔から人が夢想してきたか、夢想が現実味をおびたときどのようなストーリーが描かれたのか。
収録されている作品はほぼ日本でも紹介されたものです。日本からは鉄腕アトム攻殻機動隊草薙素子などが紹介されています。懐かしいロボット、愛されるロボット、危険なロボットなど、個性豊かなロボットの世界をご覧ください。


とまあ、こんな感じ。
私自身はロボット好きですが、彼女のように世界中のありとあらゆるロボットの情報を蒐集しているわけではなかったりする。この本を手にとったのは、ネットサーフィンしてリンクをジャンプしまくってた先のサイトで紹介記事があって軽く興味を持ったからという程度だし、この本以上に読みたいのがいくつもあったからしばらくスルーしていたんですが、1000円割引のクーポンがたまたま発行されたのでそれを使って購入。
これ、おそらく原語版が出たのが2015年前後だと思うんですが、邦訳版が出たのが2017年の頭だったということで、結構なラグがあるわけですね。なので、サイボーグの章や実際にあるロボットを紹介する章でやや物足りなさがあったりはする。
どうでもいいことですが、2018年の4月に新品で買ったんですけど、わたしの手元に届いたのが第1版の1刷だったんですよね。これ、もしかしてあまり在庫捌けてないのかなーと思ったり。たまたまかな。

内容に関しては、基本的に「へーこんなのがあるのかー」という純粋に関心が湧き出る内容。ぶっちゃけますと、日本ではあまり知られていない作品が多いのでそう感じるだけ、という部分もなきにしもあらずですが、しっかりとアトムや草薙素子や鉄人28号(28号はコラム的に触れれているだけなんだけど)といったものから、広告デザイン(空山基のセクシーロボットがエロい)に用いられた特徴的なロボットまで「広く(それなりに)深く」といった感触。
個人的にはカルチャーとしてのロボットではなく実際に歴史を辿って原初のロボットを紹介するのが良かったですね。「初期のプロトタイプ(EARLY PROTOTYPES)」という章で紹介されるのだけれど、そこで一番最初に紹介される11世紀の「蘇頌の水運儀象台」という、ロボットという単語からはイメージしにくい「時を刻む速さを一定に維持する技術を用いた装置」の先駆けとして紹介されていたり。

ともかく読んでいて楽しい。
ただ、著者があらかじめ語るようにバランスを保つために義務的に盛り込んだであろうロボットについては、彼女の思い入れがあるであろうロボットの紹介に比べると明らかに熱量に差がある。そういうのがある意味でいかにもオタク的というかフリーク的で面白かったりもするのだけれど、自分の大好きな「トランスフォーマー」がウィッキーさんの導入レベルの紹介にとどまっているのはいただけません。
ていうか、ほかのロボットの紹介に比して「トランスフォーマー」だけ露骨に「お前実はトランスフォーマー知らないだろ」な文章なのですよ。「鉄腕アトム」との文章に比べると泣けてくるくらいテキトーです。
あと邦訳部分もちょっとアレでしてね、見出しが「オートボット(サイバトロン)とデストロン」というふうになっているのですよね。オートボット(AUTOBOTS)というのは本国でのヒーロー(と言い切れない部分がTFの魅力なのですが)側の勢力の名称で、()のサイバトロンというのが日本での放送にあたってローカライズした名称なのですよ。で、語感からもわかるようにデストロンというのがヴィラン側の勢力の日本語名称なわけですが、本国ではディセプティコン(DECEPTICON)となっておりまして、そうすると見出しの情報が明らかに不足していたり()の付け方がおかしかったり、というのがわかるわけですね。

これは翻訳にあたってのロストみたいなものなので原著でどうなっているのかはちょっと微妙などころですが、知っている人からすると粗がまったくないとは言い切れない部分もあります。

あとサム・ライミの「スパイダーマン2」に出てくるドクターオクトパスもこの本の中で紹介されるのですが、彼の紹介自体はともかく作品に対する筆者の感想に対して


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         ,r'";;;;:::::;彡-=―-=:、;;;;;;ヽ、
        /;;ィ''"´  _,,,,....ニ、 ,.,_ `ヾ;;;;〉
         `i!:: ,rニ彡三=、' ゙''ニ≧=、!´  屋上へ行こうぜ・・・・・・
        r'ニヽ,   ( ・ソ,; (、・')  i'
         ll' '゙ ,;:'''"´~~,f_,,j  ヾ~`''ヾ.  久しぶりに・・・・・・
        ヽ) , :    ''" `ー''^ヘ   i!
        ll`7´    _,r''二ニヽ.     l  キレちまったよ・・・・・・
        !:::     ^''"''ー-=゙ゝ    リ
        l;:::      ヾ゙゙`^''フ    /
        人、      `゙’゙::.   イ

と思う部分もあったりはします。
しかし、それすらも楽しめるのがこの本の特徴でもあると思います。
個人の純粋な熱意によって成り立っているがための、中立性や客観性を欠如したストレートな思いが伝わってくるがゆえの楽しさというか。

それと日本版にはアイボとアトムとボイラープレートのトリコロールな表紙のカバーになっているのですが、それを外すとホラーテイストなマリア(かな?)の顔が表紙になっていて、一粒で二度おいしい装丁になっております。

これ一冊で古今東西を網羅できるというとあまりにも過言ですが、ロボットの歴史を概観しつつ所々で爪の甘さやこだわりが発揮される起伏のある読み物ではあるので飽きずに読むことはできると思います。

めちゃくちゃ豪華なロボットの同人誌と考えれば、中らずといえども遠からずでしょう。

古田雄介:故人サイト 亡くなった人が残していったホームページ達

久々に更新。
しかしあれですな。ボリュームのある本を読んでいるときにうっかり軽め(ページ数・文字数的に)の本に手を出してしまうとそちらを優先してしまいますね。結果、重めの方の本はどんどん遅れていくという。
もっとも、今回の本は内容は重めではあるんですけれどね。

内容自体はタイトルのとおりで、亡くなった人が生前に管理していたブログやツイッターなどのSNSをまとめて、その前後の反応などをまとめた本でありますです。

第一章:突然停止したサイト 本人が自分の死を予測していない、少なくとも予兆を表に出していないサイト
第二章:死の予兆が隠れたサイト 本人は死因に気づいていない、または表に出す気はないが、予兆が見えているサイト
第三章:闘病を綴ったサイト 病気の日々を長期間書き連ねているサイト、死と向き合って生きてきたサイト
第四章:辞世を残したサイト 本人による辞世の挨拶が残されたサイト。ただし、自殺したものは除く
第五章:自ら死に向かったサイト 自殺願望を綴って実行したサイト、自死をほのめかして消息を絶ったサイト
第六章:引き継がれたサイト/追憶のサイト 残された人々が長年引き継いで管理しているもの、追悼のために構築したもの

といった感じに章立てされており、章の合間に4ページほどのコラムが載っています。一つ一つの事例を見開き2ページで紹介していくわけですが、ページの上半分はサイトの画像(サイズが小さめで見づらい)で下半分が文章になっているため、文字数や読解という点で言えばかなり読みやすい本ではある。
のですが、やはり現実にあった、というより明確にサイトという形で残っている「死」を意識せざるを得ないので気分が落ち込みます。しかもタイミングが悪く、この本を読み始めた次の日に高畑勲の訃報を知りまして、昨日まで結構引きずっていました。ていうか、今も結構引きずってはいるんですが、そうも言ってられませんしね。
一般の人から事件・事故でネット界隈で少し話題になった人、アスリートやアニメ監督まで国境を除けばボーダーレスに収集されています。
しっかりと管理されているものからスパムの温床になっているものまで色々あって、なんだか物理的実体を持つ墓標なんかと少し似てる気もする。
漫画家を目指しながらも夢を果たせず母と心中した人や、死後もその研究成果などを管理されている学者、交際相手に殺されたにもかかわらずツイートを吐き続けるツイッター
どれもこれも自分に照らし合わせてみると怖くなるんだけれど、意気揚々と世界へ旅しに行って伝染病で亡くなったりバイクを盗まれて殺されたりと、そういうのを知るとやるせなくなってきます。
世の中には色々な人がいて、色々な思惑があって、当たり前だけれど自分が目にしている人たちっていうのは生きているのだ。「リメンバー・ミー」じゃないけれど、誰かを思うということは、何も生きている人だけに対してだけではないのだろう。むしろ、亡くなった人を思うことでしか感じられない何かもあるのかもしれない。それがたとえ、この本で、インクでできた数百の文字列や読みづらい小さな画像ほどの繋がりしかなかったとしても。死んだ人の残した言葉から、こうしてブログを始めた自分にしてみれば、特にそう思う。

 もちろん、そんなことは小さな頃から我々が当然のこととしてやってきたことであるというのは百も承知だ。たとえば絵本にしたって、すでに亡くなった人の書いたものであることだってあるだろうし、歴史の教科書なんてものは側面としては極めて限定的ではあるけれど、それだけをまとめたようなものでしょう。小さな頃から、死者の残したものに触れて思いを馳せてきたはずだ。けれど、そういうものはいつだってそれだけの能力や人生の集積として刻まれている、いわば「成果物」なのだ。ヒトラーの行動ですら(単純な善悪二元論に押し込むとして)悪ではあっても、その悪逆非道を行うだけの能力があったわけで、それが歴史的な「成果」であることにはかわりない。
 けれど、この本で言及されている人の大半はそんな大層なことをしていない。称揚されることも批難されることもない。ただ忘却されていた人たちで、世のほとんどはそういう人たちだ。
この世界には自分の知らない人たちで満ちている。そういうことに改めて気づかされる本だった。誰もがやっているけれど、誰もやらなかったことの一つの達成としてこの本はある。

年明けに読んだものまとめ

久々に更新。
本だけだと取りこぼしが出そうだなぁ、ということで折に触れて漫画とかコミック類についても少し書いていくことにしる。
しかし読書感想をまともに書いていくには労力がかかりすぎるので、散漫にテキトーに書いていくスタイルにしようと思いましたまる。

ツルゲーネフの「はつ恋」
これ読んだのが2ヶ月くらい前で、たまたま売店で売っていたのを衝動買いしたんですけど、青空文庫パブリックドメインになってやんの。ま、短編ならともかく薄い文庫とはいえこの量をモニターで読むのは辛いのでいいんですけど、ちょっとショックではありました。
内容はあんまり覚えていない(爆)。というか引っ越した先に年上のお姉さんがいて恋をするという話なので、話そのものよりもそれこそ文学的表現や情緒といったものを愛でる小説だとは思う。とはいえ思春期特有の痛みや、ツルゲーネフの父親に対する、ある種の従属的な側面とかが垣間見えるようで面白くはあります。
あと130pの青春に対する叫びはきます。

次に読んだのが「ファンダム・レボリューション」。
読んで字のごとくファンダムというものの在り方や、それとビジネスの関係などが過去のいくつかの例などを参考に引き合いに出されていてかなり面白い。
個人的には「初音ミクマイリー・サイラスみたいに酔っ払ったりしないから」という向こうのティーンネイジャーのシビアな意見が爆笑ポイントでした。
「いや、それは違うだろ」という部分もなくもない、というか自分の考えるオタク論的なものと違う部分があったり(そもそもオタクとファンダムが似て非なるものなのでしょうが)もするんですが、全体的にはファン心理やファンダムという行動とファン・オブジェクトの在り方なんかはすごい得心のいくものになっている。
ファンでなくなる、という部分まで含めて論じているのはなかなか潔い。

で、昨日読み終わった「EDEN」っていう漫画雑誌・・・雑誌っていうか単行本なんだけど、いろんな作家の描き下ろし漫画が集まったものなんですが、それの創刊号をひろゆき(ちがう)目当てで買いました。
ショウジはいつものショウジだったんですけど、個人的にはトウテムポール氏の「サヨナラせんぷうき」が結構良かったかな。青春のノスタルジーとしての扇風機の使い方とか。生まれも育ちも東京の自分にはあまり共感できないけど。
他には石川チカ氏の「メトロ出張版」が内容はともかく目の付け所が面白いなーと思ったり、ニコ・ニコルソン氏の「女教師サタディ」がトワイライト・ゾーンみたいなギャグで面白かった。
内容そのものが一番良かったのは朝陽昇氏の「白雪姫が微笑うたび」かなぁ。話の構成が上手いなーと。一番最初のページを二回目に読むと「あぁ…」ってなりますしねー。演技の質が感情的な回想に合わせて盛り上がっていく演出とか、「そこのみにて光輝く」の音楽演出と似ている。
この絵柄どっかで見た気がするんですが、何かのアンソロジーに書いてたりするかな。

待たせたな

誰も待ってねぇよ、というセルフツッコミもそこそこに久しぶりに読書感想を書こうと思い立つ。
実のところ一ヶ月前には一冊読み終わっていたのだけれど、すぐにほかの本に手をつけていたがために読み終わらず、しかもブックオフで年末年始のセールがやっていて余計に読みたい本が増えてしまう始末。しかも直木賞芥川賞の候補になった小説にもいくつか気になるのがあってもうてんてこ舞いです。
そんなわけで積ん読本がどんどん増えていくので、とりあえず少しでも書き下しておこうと。

で、今回読んだのは海外の児童文学と評論文。
児童文学の方は「ぼくが消えないうちに」という本で、作者であるA.F.ハロルドの邦訳本はこれが初ということ。出版は一年以上前ですが中古はあまり見かけないですね。児童文学ってわけで挿絵だったり表紙がモロに絵なんですけど、結構この絵柄好きなんですが、挿絵を担当した(挿絵は今回が初らしい)エミリー・グラヴェットはイギリスを代表する絵本作家なのだとか。わたくしめはこの本で初めて彼女の存在を知ったのですが、邦訳数はともかく2007年には邦訳された絵本が出版されていたので少なくとも10年前には注目されていた模様。情弱なり。

この本はいわゆるイマジナリーフレンドを題材にした本なのですが、まえがきを読むとハロルドもエミリーも幼少期にイマジナリーフレンドが見えていたのかな、と。だからこそ、この本を書いたのだろう、と。冒頭に添えられているクリスティーナ・ロセッティの詩がこの本の全てを表しているといっても過言ではないので、ぶっちゃけそこを引用してしまえば作者の思いみたいなものはわかる。内容は一種の冒険小説というか、2分間の冒険的というか、子どもの想像力を大人が代弁しているとでも言いたくなる「想像力の本」であると。
それと記憶の物語でもある。読んでいてワクワクする場面もありますし、思わず涙が出そうになる場面もありますし、「今はなき古き友への弔い」としての物語でもあって、そこは素直に泣けるんですけど、いかんせん「トゥモローランド」な選民思想が見え隠れしてねぇ・・・。
劇中に登場するイマジナリーフレンドの一人であるエミリーがこう言うんですよ。
この子どもたちってね~中略~見えないお友だちが必要だったり、ほしいと思ったりしてるのに、つくりだすだけの想像力がないの。それができる子は、めったにいないからね。ほんとに輝くほどの、すっごい想像力を持ってる子だけだから
この本の世界ではイマジナリーフレンドの集まる世界みたいなものがあって、主人公のアマンダのイマジナリーフレンドであるもうひとりの主人公のラジャーが、イマジナリーフレンドの先達であるエミリーにイマジナリーフレンドがなんたるか、という説明を受けるシーンでの台詞なんですよね、ここ。
いやいや。いやいやいや。それじゃ子ども万人が想像力を持つっていうメッセージにならんのですよ。いやね、最初からそういうメッセージを伝える本じゃなくて、あくまで個人的な体験に基づく個人に向けたフィクションとしての側面が非常に強いので、そのメッセージを発することがこの本の中で何か矛盾をきたすとかそういうことではないんですけどね、児童文学でそんな非情な一面を垣間見せなくてもいいじゃんすか。
内容が好きなだけに、こういうちょっと選民思想な部分がちょっと鼻につくんですよね。好きな描写とかは結構あるんですけども。真っ暗闇になった瞬間の表現としてページを真っ黒にしたりとか、文章だけじゃなくて本全体としての表現もかなり秀逸で手が込んでいるので、普通に読む分にはいいんですけど、コンプレックスをこじらせた自分が読むと作者の(あるいは邦訳者の)悪意なき蔑みみたいなものが垣間見えちゃって煩悶としちゃうんですよ。

それでも、やっぱり文章表現として気に入る部分も多々あって「冒険、というよ冒険の足がかりを失いたくなかったのだ(だれかに話しかけられたときに、読みかけのページに親指をはさんでおくのとおなじだね)」
とか、「ママの指先からまっすぐに洋服ダンスまでのびている、目に見えない線をたどった」とか、そういう些細な挙動や動作や状態なんかを小説ならではの言葉の妙で表現されたものが自分は好きなので、そういうのがそこそこ見られて良かったですしね。
減点方式だとかなり下がりますけど、加点方式だとかなり上がる、といった感じの本でした。

評論N方は「いじめは生存戦略だった!?」という本だったのですが、こちらは正直いって微妙の一言。何か新しい発見があるというわけでもないし、ほとんどが既存の論文の引用だし本全体としてのまとまりもないので全部を通して読むというよりは各章の気になる部分を読めばいいな、という印象。
ただ、意味不明なタイミングで挿入される説明になっていない説明図とか表とかは「ギャグマンガ日和」的なシュールな笑いがあります。個人的には「図1 つつかれてケガをしたニワトリ」というのが吹き出しました。いや、だって本当に必要ないんですもん、この図。絶対ページ合わせるために後から差し込んだだろう、という面白さがあります。
個人的には「文系の人にとんでもなく役立つ! 理系の知識」に次ぐダメな本(は言い過ぎですが)で、まあ人にオススメするような本ではありませんね。ふいに笑えたりはしますが、知的欲求を満たすために手に取る価値はあるかというと、そうでもないですねぇ。とかいい付箋貼りまくってはいますが。
この本をきっかけに、というのはアリかもしれませんが、これ1冊で何か知見が広がるというのはなさそうです。

フィリップ・ジャンン:ELLE(エル)(原題:Oh…)

エルが原題だと思って「そんな雑誌あったなぁ・・・サーチングの邪魔になりそうだけど」なんて思ってたら原題はもっと妙ちくりんな、というかおそらくラストのミシェルのつぶやきが原文のタイトルなのかなーと思ったりしていて、カールじいさんの原題並に調べにくそうだなーと至極どうでもいいことを思ったりしたわけですが。
オリジナルがフランス語だから邦題をフランス語の「ELLE(彼女)」にした、というよりは訳者のあとがきから察するにバーホーベンの映画化タイトルが「ELLE」だったから邦訳出版の際にそちらに寄せたということなのでしょう。まあ、「アメリカン・スナイパー」のようにもともとが別の放題で邦訳されて出版されていたものを映画公開に合わせて「アメリカン・スナイパー」のタイトルで売り直したこともあるし、それ自体がどうというわけではなく、ただの備忘録的に書いただけで深い意味はなかったりする。

前置きはそのあたりにして、さらっと読書感想に行きましょう。
自分でもよく説明しづらいんですが、ともかく面白いです、はい。なぜ面白いのか、ということを説明するのが難しい気がするんですけど、部分的な要素を取り出すとすれば冒頭のミシェルが自分の怪我の状態について分析しながら、息子や母親や元夫についての日常「的」風景の雑ごとに思考を割かれていくその様。それ自体の面白さと「ミシェルの怪我の理由」が明かされないまま日常「的」風景に突入していくことが、興味の持続に繋がっている部分はあると思う。もちろん、自分は映画の情報から原作を手にとったわけで、その怪我の理由を知っていたわけですが、それを勘案しても興味を引きつけられるわけです。
なぜなら、レイプ被害者(と記述するのがいささか誤謬がるように思われる)であるはずの彼女は、平然と日常に回帰しているからだ。と、書くとこれもまた正しくないように思われる。というのも、息子や母親といった彼女にとっての日常とのやり取りが描写される中で、やはりレイプによって負った精神的なダメージの描写が散見されるからだ。それだけでなく、物理的なダメージも。
その複雑で二元化されることなくレリゴーしている彼女の内面の描写こそが、この小説の面白いところなのではないかとわたしは思ふ。
単純な一人称形式であることからも、ミシェルの視点から物語を読み進めていくことになるわけですが、その場合に小説を面白くする要素が何かといえば、やはり彼女の思考そのものは外すことができないだろう。彼女というフィルターを通すことで小説の世界を認識する以上は、彼女が魅力的でなければならない。少なくともわたしはそう思う。
そこでいうとミシェルは魅力的すぎる。部分的な描写を抽出するとにべもない冷徹なキャリアウーマンとも思えるのだが、また別の段落では子ども思いだったり厭悪していたはずの母親を失う悲しみに体調を崩していたりと、ともかく重層的なのである。文章中で彼女自身が自分のことを「私はあまりにも強く、あまりにももろかったのだ」と評しているように、一見すると矛盾しているようにも思える人物でありながら、その実は矛盾していない--というより、その矛盾こそが人間であるというごく当たり前のことを当たり前に描き、その一方でミシェルの不義理だったりあまりに大胆不敵だったりする性事情という異様な感覚を平然と落とし込んでいることが、この小説の面白いところである。と思う。
これまで読んできた小説はかなり人物が一面化されていたり、あるいは事件・事故などの状況の変化に対応することで物語を進めるタイプの小説が多かったのですが、「エル」に関してはそういう印象はまったくなく、ミシェルという人間(設定・人物関係を含め)を描くことで物語を紡ぎ、そこに付随する形で状況があるといった感覚。だからこそ、レイプした犯人が判明した後もその犯人と交流を泰然と持ち続けるのだろうし。しかも、ひどくいびつな形でその関係が変化するという。
つまり、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」や「20th century women」と同じようなタイプの小説なのではなかろうか。メディアの形式は違うし、内容そのものもかなり違うんですけど。
むしろ、自分ごのみのタイプのモノを映画ではなく小説という別の媒体で触れることができたからこそ、この新鮮な喜びがあるのではないかと。
映画がどうなっているのか、実はまだ見ていないので知らないんですけど、映画の方も気になる。「エル」を邦訳した松永りえ氏のあとがきを読むに、原作とはややテイストが異なるということらしいので。
しかしまあ、なんというかこれといって難しい言葉を使っているわけでも難解な部分があるわけでもなく、それでいて複雑なものを描けるというのは中々興味深いというか。まあ訳者の手腕という部分もかなりかかわってくるので、あまりそこに収斂してしまうのも危険ではあるんですが。

うん、文句なしに面白い小説ですよ。最後の部分の解釈は、ちょっと自分には自信がないんですが。