dadalizerの読書感想文

読んだ本の感想(誤謬アリ)を綴るブログ。オナニープレイ。

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語:ヴィルギット・ヴァイエ=著/山口侑紀=訳

学友から借りた本を読む。

私はとかく歴史と地理と数学と古典に疎いので、モザンビークに焦点を当てた本と言われてもイマイチよくわかってなかった。内戦があったと言われてもまだよくわからず「そういえばMGSで聞いたなぁ」という程度で、自分の住んでいる場所すらわからないレッドネックを笑えない認識力なわけで。

しかし、語弊を恐れずに書けばこの本は最低限の「モザンビークでは内戦があった」ことを理解していれば読める。なぜなら「この世界の片隅に」と同じ話だからだ。

もちろん、国が違えば事情も異なるわけで。フィクションとはいえ明らかにモデルとなった人物がいることを思わせるキャラクターの境遇はやはり日本人であり日本人として日本で暮らしていたすずさんとはかなり違う。黒人であることなんかは、特に。

 

ジョゼ、バジリオ、アナベラの3人のキャラクターのナラティブとして、1981年当時内戦によってドイツに出稼ぎにでなければならなくなった過去の回想が語られる形式になっている。

真面目だったり軟派だったり、恋仲でもイデオロギーが違っていたり、同じ国・同じ人種でも出身が違うことで決定的な決裂を生んでしまったり、ということがそれぞれの視点から章立てされて語られる。

下手にごちゃごちゃと行ったり来たりする構成でないから読みやすいし、ある人物のナラティブを読んだ後に別の人物のナラティブを読むことで「ああ、こういう事情があったんだ」とわかる。

そういう、あくまで個人の話。

まあ読んでいて思ったのは、当時のドイツ(というかモザンビーク政府もだけど)がマッドジャーマンズに対してやっていたことが、日本が今、外国人労働者に対して行っていることと大差ないということだ。いやほんと、大げさでなく。

 

また、単純にコミックの表現としても面白いものがある。

コミックではあるんだけれど、いわゆるアメコミとか日本の漫画とはかなり異なっていて独特な雰囲気がある。

コマ割りとかはすごく単純なんだけど、柄や模様、背景や風景といった、なんというか人以外のおよそほとんどのものが――こういう書き方が正しいかどうかわからないが――アニミズム的であるというか、表現主義的であるのですね。

基本的に、マンガにおける背景とか小道具みたいなものっていうのはパースとかを考えたりして一種のシミュレートを行ったうえで模写をするようなものなのだと思うんだけど、この本ではそういう「正しく描く」ということよりもモノの息吹を描くことを最優先している。

絵柄そのものは、ボールペンで書いたような線だったりするのだけれど、そういう意味では絵本に近い絵柄と言っていいかも。

たとえば、空気や雪の表現に指紋を使っているところなんかは、そういう発想がなかったから素直に驚いた。あとは版画のような絵を心理描写や表現のために丸々一ページ使っていたりするのだけれど、それがあまりこれ見よがしでないというか、作画そのものが空気といったもので統一性をもって描かれているために大ゴマでのキメであるにもかかわらず突発感はあっても唐突感はないというか。

 

 

いや、中々面白いコミックでした。

 

【禿同】栗原康:「生の負債」からの解放宣言 はたらかないで、たらふく食べたい【禿同】

この間、といってもこのエントリを書き始めたのが2か月以上前なので、そこからさらに1か月ほど遡ることになりかなりのスパンを形容する「この間」になるのですが、学友から唐突に一冊の本を勧められた。それが栗原康「はたらかないで、たらふく食べたい」だった。
学友から本を渡されるまで、寡聞にして著者のことは全く知らず、さらに言えば著者が研究している人物のことや本に出てくる人名などについてもほとんど知らなかった(まあ、書中に出てくるタランティーノとか耳なし芳一はさすがに知ってるけれど)。
学友が私にこの本を勧めた理由は、まあ本のタイトルと私の理想が合致しているからだろう。なにせ、本を貸してくれた学友は本を読んでいなかったのだから。内容ではなくタイトルと帯で私が好みそうだと判断したわけで。そして、学友の碧眼は正しかった。

さて、この本の内容はタイトルの通りであるのだけれど、この著者のこの主張の説得力は割とすごい(ボキャ貧)。
大体、この手の主張をする輩というのは一度社会人として働いていたり、結局のところ今はフリーで自由にやっていますみたいな成功譚だったり自己陶酔的な自分語り(そりゃ当然なんですが)なわけですが、この栗原さんはその手の連中とは毛色が違う。
アルバイトや非常勤の臨時講師以外の社会人経験は正真正銘(本人談)ないのである。院卒は伊達ではない。まあポスドク問題もありますし、就職氷河期とかもありましたからね。
何が言いたいのかといえば、前者のように「かつて働いていた者」の場合は結局のところ何も変わってはいないのだ。
いや、それだと語弊があるのだけれど、既存の構造の中でループしているに過ぎない。それこそ、環境管理型権力アーティファクト)によって規定された資本主義・政府の囲いで、井の中の蛙がぴちゃぴちゃしているに過ぎない。安易な資本主義批判は馬鹿丸出しなのでなるべくなら避けたいのだけれど、一方でこの大規模なシステムを声高に罵倒してやりたいというのもやはりあるわけで・・・だからと言って社会主義万歳三唱するわけではありませぬが。
しかして、栗原さんは違う。もっと根本的な、それこそ脱構造主義的な、しかしクラシックな主義を主張するアナーキストだ。


お偉方はお偉方で生涯学習とか喧伝しつつ、そのくせ学習に充てる時間も(金銭的・心理的・物理的)余裕もないくらい疲弊させている。まったくふざけているとしかいいようがない。そもそも、学習すべきはちみたちではないのかね。

ひとしきり前置きを書いたところで、感想文らしく文量の嵩増しもとい構成を記述していこうと思います。
本書は以下のような構成になっております。


⓪キリギリスとアリ――はたらくこと馬車馬のごとく、あそぶこと山猿のごとし
①切りとれ、この祈る耳を――耳切り一団
②3.11になにをしていたか?――とうとう江戸の歴史が終わった
③豚小屋に火を放て――伊藤野枝の矛盾恋愛論
④甘藷の論理――うまい、うますぎる!
⑤地獄へ堕ちろ――ヘイトスピーチか、それともスラムの念仏か
⑥他人の迷惑かえりみず――心得としての高野長英
⑦お寺の縁側でタバコをふかす――大逆事件を旅してみれば
⑧豚の足でもなめやがれ――もののあはれとはなにか?
大杉栄との出会い――赤ん坊は決して泣き止まない
⑩ヘソのない人間たち――夢をみながら現実をあるく
⑪反人間的考察――歴史教科書としての『イングロリアス・バスターズ
⑫豚の女はピイピイとわめく――老荘思想の女性観
⑬だまってトイレをつまらせろ――船本州治のサボタージュ
・あとがき
・参考文献/初出一覧

といった具合。
各章の長さはまちまち、ていうかこれだけ細分化しているので一つ一つは短い。3ページくらいのところもあったりで超新設設計になっています。
最初の章を⓪にしたのもそれが理由だったりします(まあほかも長さはさして変わらんのですが)。なので集中力が持続しない人でも一つ一つの章を区切って読めまする。文章も軽くフランクに書かれているので(それが嫌って人もいるだろうけれど)すいすい読めます。
とはいえ、正直、読んだのがちょっと前だけに内容は抜けている部分もある。あるのだけれど、とりあえず付箋を頼りに各章でのダラダラと書きなぐっていく。

⓪キリギリスとアリ――はたらくこと馬車馬のごとく、あそぶこと山猿のごとし

「キリギリスとアリ」はもうそのまま。アリとキリギリスを逆転させただけ。立場を、ではなく結果を。ともすればルサンチマンマスターベーション二次創作ともとれるのでしょうが、仮にも博士であるわけで、その二次創作が二次創作たりえる論拠を「新自由主義、やりがい、労働倫理etc」ワードで提示する。
ここで掴みはOK。

①切りとれ、この祈る耳を――耳切り一団

①も有名な怪談話である耳なし芳一に関する話。私はおそらく、一般的な水準でしかこの話は知らないのですが、曰くこの話はもともと「耳なし一団」というタイトルで耳を切り取った平家の怨霊たちが主人公だったとか(黒澤明の「夢」で兵隊たちの霊がずらと並んでいるイメージが沸いていたあなた。後楽園でぼくと握手)。
どうもこの話と大河ドラマの「平清盛」が関係しているらしいのですが私は見ていないのでよくわかりません。とりあえず、著者はドラマを引き合いにしてこの怨霊たちに同情し、和尚をなじる。耳をはぎ取ったことも仕方ないと擁護するのである。
この怪談から展開されるのは奔流する情報への認知および社会学的なふるまいへの言及(たぶん役割期待とか、その辺の絡みがあるかと)、認知資本主義とかとか。
そこから著者の体験談としての「京都」という町に担わされた観光都市という役目。それ以外の側面の否定。さすがに古墳でカルピスをぶちまけるのはどうかと思うが(カルピスもったいないし)、要するに期待された振る舞い以外をすると白い目で射られることへのキュウクツさを言いたいのだ。
同調圧力というものに非常に近しいもので、これってはっきりいって「1984」的な相互監視のディストピアまっしぐらだと思うんですよね。そうでなくとも日本はイギリスと同レベルで監視カメラの設置数が500万台あるとかないとかって話ですし。今は確かイギリス抜いて1位なんでしたっけ。
思うに、災害のときに自販機なんかが荒らされないのって、モラルっていうよりもそういう「誰かが見ている」という植え付けられた強迫観念によるものなのじゃないかしら。そもそも、モラルというものが何かという話にもなってくることはありますし、さらに言えば「盆唄」でちょろっとあったシーンで人のいない家屋のシャッターがこじ開けられていたりする例もあったので、みんながみんなそういう律儀なルールドマンってわけじゃないのよ。改めて書くことでもないだろうけれど、そんな当たり前の大前提。
さらにさらに言えば、わたくしとして本当に死ぬ寸前だったり苦しんでいるのであれば、自販機を破壊して飲み物を飲むくらい許容してもいいと思うけれど。災害時に自販機を荒らす理由は本当に乾いているか、状況を利用して高値で売りつけようとする屑のどちらかだと思いますが。
それと、モラルに関することでいえば伊藤の「ネイキッド」とそれに対する藤田の考察が一読に値するものなのだけれど、まあそれは置いておこう。

この章で個人的に好きな一文があるので、覚書としての意味合いも込めて書いておく。
わたしたちはいつどこにいても、ひとつの行動を選択せざるをえない。それは生きているかぎりあたりまえなのであるが、でもいまの認知資本主義では、そのひとつでさえ考えて動く余地がほとんどない。~中略~もし実現されなかった行動まで、ひとつの生というか、生き方であると考えるならば、わたしたちは無数の生を殺したうえで生きているのだ。~中略~今の社会では、その殺戮さえも自覚しないまま生きていかざるをえない
この文中で、さきほどの怨霊と殺された無数の可能性としてのわたしたちを重ね、その否定ないし情報に甘んじることを芳一に無駄なアドバイスをした和尚と同一視し、命令を聞き入れない姿勢を提示する。無論、芳一と同様にその代償としての痛みを伴うかもしれないことを認めつつ。
たぶん、イーガン(てか量子力学とかへの関心)とか読んでると、この殺戮という表現は遠からずというか、よりポエティックになっているだけとも言える気がして、だから好きなのですよね。

②3.11になにをしていたか?――とうとう江戸の歴史が終わった

これはそのまま、3.11のときの著者の状況を描いている。まあそれ自体はカメロンパンとか気になりつつも全体的には「さようですか」程度なのだけれど、その当時の情勢を徳川綱吉の時代と重ね彼の政策を肯定的に捉えて、資本主義というか経済システム優先で人をないがしろにする世界への批判へとつなげている。
うん、何も間違ったことは言ってない。

③豚小屋に火を放て――伊藤野枝の矛盾恋愛論

最初の4ページはラフティング旅行についてなので特にな・・・この調子で書いていくと終わらないから重要なとこだけでいいか。
この章には自分の願望がそのまま文字に書き起こされている。ので、ママ引用。
「そもそも大学教授になることが目標ではないということをはなし。じゃああなたはなにがしたいんですかときかれたので、わたしは本がよみたい、本をかきたいとこたえた。それじゃあ、子どもとかわりないじゃないですかと冷笑されたので、わたしもヘラヘラと笑って見せた」
著者の場合、結婚を前提に付き合っていた彼女がいたものの、30超えて大学の非常勤講師でしかなくほとんど収入のない状態では(彼はともかく)彼女やその周囲から猛反対をくらってしまっていたので、私よりも問題があったのでしょう。
男性が妊娠して出産することができれば(技術的には確か実現可能な範疇にあったような)、もう少し変わってきそうなものでもあります。いやまあ、女性の身体性の搾取とか、そういう問題も孕んでいそうですが。
そういうのは別にしても、結婚を考えている彼女とは正反対に著者とその周りの働きかけのマイナス作用っぷりが面白い。たまたま出くわした友人がコペンハーゲンで監獄を共にしたことをよりにもよって彼女の目の前で言ってしまったり。
この章で語られる著者の行動がかなり私自身のそれと類似している。といっても、わたしはせいぜいしょっぱい大学の学士でしかないので、書き直しくらったとはいえ論文を書いたりしているだけまだまだ彼は労働者の範囲内だと思いまするが。
でまあ、彼女との交際の顛末は普通に笑えるのですが、そのあとの「矛盾恋愛のはてに」というパートでは中々に面白いことが語られる。深い、とか書くと途端に浅くなってしまうのであえて面白いと書きましたが、言っていることはかなり的を射ている。
当初は恋愛感情だったものが結婚を意識することによって自分のことばかり考えてしまい、見返りを求めるようになりいつのまにかそれは損得勘定になってしまう。宮台真司が言っていた通り、損得でしかものを考えられない人間(安倍政権を名指ししながら)は屑野郎で、それ以外の価値観でものを考えることが必要だ、と。
栗原さんの場合は自分のことを棚に上げていまいかと疑義を呈したくなるのだけれど、よくよく考えれば恋愛なんてものはお互いが好き勝手に好き合っているのだから、そこに犠牲的な精神を持ち込んではいかんのかもしれない。高校時代の私は、そういう考えもなくそういう振る舞いをしていたから人を傷つけてしまうこともあったのだろうなぁ・・・(遠い目)。
それでも、男女とか関係なしに、恋人とか友人とか関係なしに、好きな相手には何かをあげたくなるものだ。それは何か見返りを求めて、ではなく。自己満足と言ってしまえばそれまでだが、自分が満足することがまず第一ではないのか。自分が満たされずにどうして相手を満たすことができよう。

また、伊藤野枝という女性作家の話がこの章の大部分を占められている。その辺は大体全部今の男根社会に対する批判を含めて重要な部分なんですけどいちいち書き起こしてたらまとまらんので割愛。

結婚の起源は奴隷制とか、「家」とは豚を囲うと書いて「いえ」と読むのだbyアナーキストの部分とか面白い話はあります。

忘れないでください。他人にほめられということは何にもならないのです。自分の血を絞り肉をそそいでさえいれば人は皆よろこびます。ほめます。ほめられることが生き甲斐のあることでないということを忘れないでください。何人でも執着を持ってはいけません。ただ自分に対してだけはすべての執着を集めてからみつけておきなさい。私のいうことはそれだけです。私は、もう何も考えません。

④甘藷の論理――うまい、うますぎる!

去年の九月から、ひっちゃかめっちゃかにはたらいている。火曜日と土曜日、週二回のアルバイトである。正直、こんなにたくさんはたらいていたのは、生まれて初めてだ。やっているのは塾講師。~中略~授業自体はたのしいものだ。きまった内容をおしえて、学生とおしゃべりをしてくる
いきなりこの出だしである。いいぞもっとやれ
いや、バイト先まで片道三時間かけているから疲れるというのはわかる(わからん)んですけど、それにしても読む人が読めば噴飯ものなのだろうなぁ。
この章ではこのバイトの件でやせ細った著者がサツマイモを食べてサツマイモ上げて終わる(!?)んですが、そのサツマイモを巡る江戸時代・吉宗のちょっとした歴史話が面白い。帰結としては、「ナショナリズムが許されるのはWWⅡまでだよねーキャハハハハハ」です。超絶意訳ですが、要するに(国家とか)知るかバカ!そんなことより人人だ!ってとこでしょうか。

⑤地獄へ堕ちろ――ヘイトスピーチか、それともスラムの念仏か

ヘイトスピーチ、ダメ絶対。な章。
そこから展開されていくのは一遍上人の話であり、「自分のおこないに負い目を感じすぎて、そこから目をそらしてしまう人たちもいる。まわりのほどこしで生きていくのは恥ずかしいことだ、殺生をしてでもなにをしてでも、自分の身は自分でまもらなくてはならない。はたらけ、出世しろ、よりよい衣食住を手に入れろと。いずれにしても、ひとのふるまいに善悪優劣の区別がつけられる。一遍上人が、空也上人をうけて「捨ててこそ」といったのは、この区別を捨てれといったのである。」ということなのだ。だいぶ端折ったが、そういうことなのだ。これを犠牲と交換のロジック(白石嘉治)というらしい。また、そのロジックによる国家の囲い込みを論じ、それから逃れようとする人々を「ゾミア」と呼ぶbyジェームズ・スコット。ということが書かれている。
ちなみに、この稿の依頼として「ナショナリズムは悪なのか」(菅野稔人)を批判してほしいというものだったらしい。なんだ、私の要約もとい意訳あってんじゃん。

⑥他人の迷惑かえりみず――心得としての高野長英

年金の起源、頼母子講、無尽講、そういった相互扶助の話。で、その制度を使った高野長英という男の話。
この高野長英の話は面白い。一見するとポンコツに見える彼が随一の蘭学者であったこと、その最期とそれにまつわる血縁者の顛末。あるいは権力者のパワー自慢のための改ざんなどなど、この時代から体制側の歴史修正主義がはびこっていたのだなぁと今の政権を観ていて思う。
ここら辺はまあ生活保護の利用に関する批判に対するカウンターでもあり、そもそも論としての現在の年金制度への批判が込められている。
他人の迷惑かえりみず。それが相互扶助の神髄だ
クロポトキンの相互扶助論読んでみようかしら。

⑦お寺の縁側でタバコをふかす――大逆事件を旅してみれば

この章の最初のタバコの話は、正直なところ非喫煙者からしてみると「あぁ!?」となる部分はある。
ここに関しては詭弁もいいところである(面白いけど)。この部分だけは論拠に乏しい反面、喫煙と肺がんのリスクなど他者への害が明示されているだけに、詭弁を弄そうとしているのが空回りしているというのもあるだろう。
ただ、非喫煙者であるから、ではなく(や、それもあるけんど)本当に路上で煙草を吸っている輩は危険なんですよね。横断歩道で煙草を手に持った喫煙者とすれ違って危うく当たりそうになったこともある(なんでこっちが避けにゃならんのですか?)ので、余計にね。ただ、だからといって路上喫煙を禁止するというのは、それこそ治安維持法とかに近づいて行ってしまうので、難しいところではある。
だからといって臭い・汚い・危険・高額の4K要素を内報するタバコを商品世界のことに置き換えるのはやらしい論法のすり替えですよ。まあ、表現の上で吸われるタバコとかはかっこいいと思いますし大賛成なんですけど。
煙草論については伊藤の「人前アディクションダサい説」の方がビューポイントとしては納得しやすいしハッとさせられたしぃ。思想としては一貫しているので、そのブレなさはやはり称揚してもいいのだろう。

小栗判官の話は面白かったです。時宗なる一遍上人を教祖とあおぐ教団が広めたとかなんとか。日本神話っぽい異種姦ものです。
面食い小栗が美女に化けた大蛇に拐かされ、色々あって照手姫なる別の女を見つけるもここでもひと悶着あって・・・閻魔は出るし餓鬼になるしといった具合。
しかし、多くの民謡や神話に共通するように、この話も隠喩としての側面を持っている。餓鬼がハンセン病患者を表しているとか障碍者だとか被差別部落出身者だとかなんとか。浄不浄とか関係なく受け入れるよ精神を述べたかったらしい。
あとは寺でタバコ吸っていても許されるのだ、という話なんだけれど、他力の話は爆笑問題の太田がラジオで言っていたのもあってシンクロニシティ
曰く、自分の力で救いを求めるのは良くないと。それは自分の行為に見返りを求めることで、なんらかの価値尺度を設けることであり、それはひいては善悪優劣のヒエラルキーを認めることであり、人が人に支配されることである。
みなさん、自力はやめましょう。しんどいし。

⑧豚の足でもなめやがれ――もののあはれとはなにか?

江戸時代の源氏物語の解釈について。当時は儒教と仏教による曲解によってひどい解釈がされていたらしい。(すさまじく余談なのですが、ヤンジャンでまだ源君がやっていると聞いて驚いた。連載のページ少ないとはいえ)。
簡単に言えば「えっちなのはいけないと思います」ということだ。もっと言えば恋愛否定だろうか。著者的にはもののあはれと恋愛はほぼ同義らしいので、それを否定する儒教仏教マジうんちといった主張。逆説的な、ね。
わたくし自身は恋愛にそんなに重きを置いていないけれど、恋路に善悪の基準を持ち込んだらダメ、というのはまあわかる。
それを政治というレベルに置き換えて書いているので、なんだか大層な話に聞こえてくるのですが、結局のところはラベリング理論てことかな。
あと学者のMの嫁に恋して撃沈したくだり、Mが誰なのかすごい気になるんだけど、誰なんだろう。
第三世界かぁ・・・

大杉栄との出会い――赤ん坊は決して泣き止まない

満員電車に乗るくらいならサボろうZE。

⑩ヘソのない人間たち――夢をみながら現実をあるく

安部公房の赤いチョークを引き合いに、夢を論じる。
「にんげんのふるまいにひとつの標準が設けられて、それにしたがって生きていかなくてはならないと思わされる。人はもっと自由にふるまっていいはずだ。そのために本気で創意工夫を重ねてみる」
まあね、大リーガーになる夢は称賛されて、働かないで生きていくという夢が罵倒されるのはよくわからないよね。いや、わかるんだけどね。
まあこの章はラストの補記で落ちているので、それでいいか。

⑪反人間的考察――歴史教科書としての『イングロリアス・バスターズ

政治の不要性、というか不要であると氏は言う。私もそう思う。なぜなら私は魚雷だから。政治をおふざけとするなら、魚雷ガールにはもう縦横無尽に駆け巡ってほしいものですが。
冗談はさておき、政治というシステムは娯楽として余興として楽しむ分にはもってこいだけれど、自分の人生に密接に関係してくるから困るのである。大体、本当に政治って必要か?いや、この複雑化した世界で効率よく国家をというか国民を運用するためには必要なのだろう。
どちらが先かは知らないけれど、官僚主義と近い発想を基にしているはずだ。
民主主義にしたって結局は政治の一形態でしかない。民主主義に至るためにどれだけの血が流れたか。それはなんとなくわかってはいるけれど、しょせんは妥協の産物でしかないのではないか。
だから、政治がいかに汚わいと虚飾にまみれたものでしかないかということを「イングロリアス・バスターズ」の引用(タランティーノ的ゴア)によって、アガンベンバートルビーによって、歴史を都合よく利用してきたことを提示する。


⑫豚の女はピイピイとわめく――老荘思想の女性観
隙あらば自分語りをする著者ですが、ここでもまた過去のことが語られる。それどころか恋愛観みたいなものも。まあ面白いから構わないのですが、豚の比喩にこだわる自己分析における幼少期の記憶。
母方のおばあちゃんちに遊びに行くと叔父が東南アジアの女性を囲って(って表現は語弊がなくもないんですが)いたとか。しかも、もともとはそこには豚小屋があったのを彼女たちが住めるような掘立小屋になっていたのだそうな。で、そういう人は雇用者に割とひどい扱いをされるのが定番で、例にもれずそういうパターンだったのですが彼の祖母がいい人でなんやかんやそこで暮らしていたらしい、女性たちは。
かと思いきや話は紀元前三世紀の思想家である荘子の話になる。比喩や寓話を使ってアナーキズムを説いたそうな。で、その人の書いた「山木篇というのが引用されている。
書き起こすには手間なので、まとめた部分だけを引っ張れば「無限の生滅変化の繰り返しを受け入れることこそが自由無碍なのだ」ということらしいのである。「山木篇」の要約というか、その思想の発展としてそういうことが言えるってことなんですけど、さらに言えば「人をないがしろにしてまで既得権益にしがみつく糞は死ね!」ってことだろう。
でまあ、叔父さんの店はおねーちゃんたちに非道い扱いをしていたので案の定逃げられたり一部の輩がJK売春させていたりでダメになって借金まみれになったとか。ただ、一方で著者にとってはいい叔父さんだったらしく(その身内にやさしいというのがまさにマフィア的なんですけお)、色々と感謝している。相対的に自分の借金が軽く受け止められるようになったとか、おいしいものを食べさせてもらったとか。
で、さっきの荘子の話に戻ると生滅変化には三つの見方があって
一つは「いっさいは無である。なんにもない。」
二つは「物は存在するが、境界線やくべてゃ内。無限である。」
三つは「物の区別は存在するが、そこに価値判断をはさまない。」
ということらしい。


⑬だまってトイレをつまらせろ――船本州治のサボタージュ

この最後の章で取り上げられているエピソードは、山谷のどやがいでの闘争の話と、それにまつわる船本州治という思想家の話。
山谷の話は著者の無能っぷり(ヴァイスさんリスペクト)と人情と世知辛さを思い知る。
船本という人物についてここで書かれているのは、彼の活動した60年代から70年代当初のフリーターをどうとらえていたかという部分。
当時はルンペンプロレタリアートという蔑称として呼ばれていて、定職についていない人は十把一絡げに差別的にみられていたのだという。で、船本はそんな彼らを肯定的に捉えなおす。
面倒なので書き起こしはしないが、201ページから204ページまで読めばよろしい。
そろそろ書いてきて疲れてきたのだけれど、ここで引用されている「サボタージュの哲学」の例は取り上げておきたい。
ある工場のトイレが水洗化され経営者がケチってチリ紙を完備しないときの振る舞いとして、ルンペンたちの取る行動として新聞紙などの固い紙で詰まらせるのだという。それ以外にも二つの方法が例示されているのですが、別にトイレ云々という問題ではなく、立場を理解した上での振る舞いの違いを明らかにしているのだ。
己を弱者として「固定」し陳情するパターン、自らを強者として誇示し対等な交渉を進めようとするパターン、そして現実の階級を恨み弱者であることを自ら認めそれによって駆動する者。
船本の資本主義を生産過程と市民社会に区分する見方は正しいと思えるし、フレデリック・ロルドンなる人物の言う工場労働をモデルにした社会のありよう(これ、アニメカービィでモダンタイムスのパロをやっていたのがそのまま当てはまるのが面白い)だったり、消費行動こそが近現代における人間的行動であるという価値観の植え付けが行われてきたことだったり。
ウェブレンもボードリヤールも消費の変化について論じていたけれど、そもそも消費を前提とした社会の在りように疑義を呈するべきなのかもしれない。

あとがき

はあ総括でありますね。最後に資本主義に中指をおったてて終わる。
正直なところ、自分はまだ勉強不足なもんで資本主義に石を投げることはできないし、生まれてこの方そのシステムに隷従して生きるように調教されてきているから不安な部分も大きいのですが、こういう人がもっと公に出てくれたりするといいのかもしれない。


そういうわけで、一万字オーバーという文字数にわたって書いてきて(ほぼ引用ですが)、おおむね同意していることは伝わったと思う。
実際、この人の書く文章は面白いし同意できる。のだけれど、この人は自分の思想を正当化するために論文や知識を援用しているようにも思えてしまうこともなくもない。タバコのとことか。それこそネトウヨ的に。
とはいっても、ネトウヨのような論拠も根拠も貧弱なそれではなく、ちゃんとした資料に基づいているので一緒にしては失礼なのですが、自分にもそういう部分が往々にしてあるので気になるのです。だから、その真偽を見定めるためにもやはり自分で学ぶ必要がある。
チョムスキー先生は「評論は俺に任せろー(バリバリ)」と言いますが、やっぱり私は不安なので手の届く範囲で勉強したいと思います。


多様化を歌いながら、なぜ働かないという価値観はダメなのか?それを考えることから始めたっていいのに。
もちろん、それをいいように使って「殺人も認める」という価値観も受け入れろ、と明後日の方向に飛躍させる輩が出現しかねない。残念ながらそれをロジカルに反駁する教養は私にはないのだけれど、まあしいて言えばひとつは多様性がなくなるからだ。一人が殺人によって死ねば、多様性がひとつ失われることになる。多様性を認めようにも認められなくならから、ダメだよね、という話。
第一、殺人が肯定されれば種の存続が危ぶまれるわけで。

よく考えるとおかしいことというのは色々あって、たとえば、生きていたらその人が生み出していたであろう価値を経済という枠組みで絡めとろうとしてくるけれど、じゃあ経済ってなんだよ?
私に言わせれば、働くということは、ほとんどの場合が怠惰に他ならない。
保守速報の例をとるに、普通なら、たとえそれが嫌悪を抱く相手でも悪罵をなげつけるというのは苦しいものだ。けれど、それが金のためとなると容易に自己正当化される。さらに、ネットの発達によって本来ならば痛痒を感じるはずの部分がフィジカルなコミュニケーションを欠くことによってそれを加速させている。
罪悪感を上塗りしてしまう。


ともかく、これだけは言える。
ニートやひきこもりこそがロックであり勇気ある革命者なのだ。
だから私は、声を大にして言いたい。あなたたちは忍辱な勇者なのだと。
世界の引きこもり・ニートたちよ、立ち上がるな!鎮座せよ!立ちて死するな、伏して生きろ!

ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド:ブライアン・W・オールディス(柳下毅一郎 訳)

お久しぶりんこ。
そろそろ読書感想を書くのが苦痛になってきております。
もとより読書にはかなりのエネルギーを使う上に読むのが下手くそだし。最近は色々とあって、本を読むタイミングもなかったこともあって、読書週間を取り戻すのが大変ですた。
それに、すでに読み終わって途中まで書いていたものも放置している状態で、完全に進研ゼミのダメパターンに入ってきている。や、別に何かに追われているというわけではないのですが・・・。寿命に追われている、ということは言えるかもしれませんが、それを言ってしまうとほかのすべてに当てはまることだしなぁ。
しかし、今回取り上げる本は軽いノリで(訳者の柳下氏も指摘している通り)ページも少ない文庫本ということもあって読書週間を取り戻すにはかなり手ごろでした。
まあ、軽く書かれているからといって必ずしも内容が軽いというわけではなく、まして出来栄えが悪いというわけでもない、というのが才人の才人たる所以なのでしょう。
オールディスの小説はこれが初めてなのですが・・・とか色々書き綴ろうとも思ったのですが、そういうことをダラダラと書いているから余計に面倒なことになるのだろうと書きながら思い直し、すぐに本題へと行きましょう。一応、スピルバーグの「AI」の原作者、と書いておけばそれなりに伝わるかしら。


以下、文庫本裏表紙に記載のあらすじ

英国北部の僻地、レストレンジ半島(ヘッド)に生まれ育ったトムとバリーは、結合双生児。さらにバリーの方には第三の頭が生えていた。
二人を待ち受けていたものは、ロックスターとしての世界的な成功と、運命の女性ローラとの邂逅。
だが、離れることのできない兄弟は互いにに組合、争いは絶えない。その果てに……巨匠オールディスが円熟期に発表した名編。

あらすじからもわかるように、フリークスの話です。
前書きを含め8つのチャプターで構成されているわけですが、それぞれのチャプターではトムとバリーの関係者の一人称形式あるいはインタビューという形で物語られていよる。
この構成の妙というのは、つまるところトムとバリーの当事者の視点を入れない部分にあり、結局のところ彼らの理解には至らないということろだと思います。もちろん、兄弟に最も近しい存在である姉のロバータの記述においてトムの見た夢が語られていたり、恋人(?)であるローラの語りもトムとバリーの関係性や人間性を陳述してもいるわけですが。
トムとバリーの理解に至らないということはイコールでソレの存在を隠匿することにも繋がる。もし、トムとバリーの内心を一人称で描こうものなら、どうしたってソレの存在は無視できなくなるだろう。とりわけ、フリークスである彼らを描くにあたってはその身体性からは逃れられないだろうから。そういう意味では、フリークスの悲哀というのは伝わりづらいかもしれない。とはいえ、関係者から語られる兄弟の懊悩は真に迫るものはあるし、決して伝わらないということではない。しかし、なぜそんな構成にしたのか。
結局のところ本人たちの内心を描かないという選択をしたのは、最後の数ページの展開のためにあるのでしょう。その展開に至るまでに、予兆は散見できる。どころかあらすじの中にすでにその布石が置いてあるわけですね。
しかし、これが上手に機能するのはやはり視覚のメディアではないからでしょうな。だって、これがもし視覚メディアであれば(いやまあ、映像化しているわけなんですが)トムとバリーを映した時点でソレは強烈に存在感を放ち続け、本書のように「フリークスの悲哀とかの色々な物語がホラーに転じる」という急転直下(それでいて唐突な展開ではないという技巧)なセンスオブワンダーは描出できないだろう。
ところどころで挿入される挿絵も、うまい具合に予兆を放ちつつもソレの存在感を薄めている。

他者によってトムとバリーを語らせることにより、トムとバリーのへの理解の程度を徹底して一定未満に保つことで、ソレの理解を拒ませる。だからこそ最後のあの展開は背筋が凍るものになるわけです。そしてまた、ある種の憐憫も。

基本的にはトムとバリーの話ではあるのだけれど、個人的に一番グッとくるものがあるのはローラの寄稿だったりする、というのが我ながらどうしようもないなぁ、と思う。
まあね、彼女のチャプターは読んでいてうんうん頷いたり自分の恥部をつつかれているようであったり、一方で彼女の語りそのものにほろりとしてしまうところがあったり、すごくエモい。でもやっぱり、どこか自虐的だったりシニカルな軽さもあってすごい読みやすいんですよね。

ああそれと、イアン・ポロックのイラストもすごい良いです。この悪意マシマシで描かれる人間というのがもうこの本に適している。まあ、一部の好事家に支持されるだけでは金はそこまでついてこなかったらしいですが、こういうイラスト増えてくれるといいなぁ。
もとはカラーイラスト付きの大型本だったということで、ちょっと元の方も読みたい欲望が。

軽く読める良作でしたよ、ええ。
次は同じ著者のスカトロSFを読んでみたいでせう。

仁司方:「殺人ビーンズへの反撃」&「鋼の国の火星兵(マルス)」

自分でもなぜこのタイミングだったのか、そもそもなぜ今の今まで放置していたのかもよくわからないのだけれど、5,6年前の文フリで表紙買いした短編集をついこの間読み終わったので簡単に感想を書く。
2冊とはいえそこは両方合わせて200ページ行かないくらいですから、ボリュームとしてはむしろ少なめ。
筆者はBLEMEN(無礼面)というサークル?で主にSFとかファンタジーを書いている人らしいです。らしいです、っていうのは、一応文フリで買ったんですけど当時の記憶はほとんどないもんで売り子の記憶もないんですよね。話した記憶もないので、どういう人物かは不明。元々は独自のHPもあったようなのですが今は見れず。
ただ検索すればちょろっと情報は出てきます。

plag.me
BLEMEN 参加履歴・作品リスト - Plag!

二つ目のURLにはこれまでの作品が出ていて、表紙も確認できるんですが、まあぶっちゃけ表紙で買わせようとしていますよね、という。で、わたしも表紙に釣られて買ったので見事にその手に乗ってしまったわけですが、なんか一昔前の早川とか創元の文庫っぽい塗りにちょっと現代テイストの入ったデザインですごい好ましいんですよね、この一覧を見る限り近衛祐なる人がイラストを担当しているらしい。イラスト集があるっぽいので、ちょっと欲しいんですけど・・・。

そんなことより内容はどうなのよ、というところでしたね。
まず「殺人ビーンズへの反撃」について。
こちらには
・殺人ビーンズへの反撃
老人と海と毒薬
・偽薬
・Drining
の4つの短編が収録されております。

えーなんかこの人の全体に言えることなんですけど、起承転結が見えない。読んでいると「あれ、これで終わり?」といった感覚で起伏がないんですよね。あと隠しきれないラノベっぽさがある。「鋼の国の火星兵」に収録されている「眷属」っていう短編がモロで、なかなかきついんですが、ほかのにもちらほらその気が見える。
あと、固有名詞がなんかこう、これはいい意味でちょっと前の早川SFの翻訳っぽい感じがする。
この中だったら「Drining」が一番好きですかね。あの平和な感じとラストの唐突に突き放す間隔の感覚が。

2冊目の「鋼の国の火星兵」には
・眷属
・鋼の国の火星兵
・ハピネスランドの天然牛
・アンチ・デッド・キラーズ
の4作が収録。

よく考えたらこっちは全体的に文体といい設定といいラノベっぽさが強い。
鋼の国の火星兵は設定とかすごい盛り上げられそうなんですけど、結局あんな重量のパワードスーツ来てこれといったアクションもなく軋轢もなく終わってしまうというのがもったいない。
眷属は地の文も科白も全体的にきつい。昔の自分を思い出して本当にきつい。そこまでラノベ方向に振り切らなくてもいいのに、という気がするんですけどね。
ハピネスランドの天然牛はなんというか、ある種の日常系的というか。なんかキャラクターがどうしてもラノベ寄りなんですよねぇ。
アンチ・デッド・キラーズは多分、設定は完全にラノベのそれ。それが悪いというわけではなく、クリシェエピゴーネンを読まされているとしか思えなかった。

個人的には[「Drining」はそれなりに好きですがほかはちょっと苦手な要素が多くてきつかったかもです。まあ好みは別にしても、もうちょっと全体的に起伏があるか叙述ギミックを使ってくれたら楽しいかなと。

なんもかんも体制が悪い

久しぶりの読書感想。実を言えば、前回のポストから今回のポストの間にいくつか本を読んでいたのですが、どうにも感想としてまとめるにはボリュームがありすぎて大変だったのと、単純に忙しかったのがあってできずじまいだったんですよね。
しかしそろそろ更新したいなーと思っていたときに学友から借りた本がスイスイ読めて感想も書きやすかったので勢いに任せて書く事に。

さて、そんなわけで今回読んだ本は小林エリコ著「この地獄を生きるのだ うつ病生活保護。死ねなかった私が「再生」するまで」でございます。
ラノベよろしくタイトルで全てを説明しておりますので、概要とかは特に必要ないでっしゃろ。

この本は最初の「はじめに」のページでいきなり懺悔からスタートします。万引きの懺悔を。コンソメを万引きしたことの懺悔を。398円を。万引きといって思い浮かべると、大体の人はその行為に至った理由を出来心なんかに起因していると考えると思う。少なくともわたしはそうだった。
けれど、この人は違う。この人は、貧しくて万引きしたのだ。大根と鶏肉のために。そういう人が日本にいる。そんなことは、「万引き家族」を見るまでもなくわかることだけれど、普通に生活しているとそういうことに気が回らないし意識することもない。自分だって、この本を読み終わった今となっても、普段の買い物の中で小林さんのような人が同じ空間にいるかもしれない、などと常に気を払うことなどないだろう。仮にできたとして、何かが変わるというわけでもない。そういう現実を突きつける本である。
まあ、著者に関してはぐぐればたくさん情報が出てくるので、そちらを参考にしてもらえれば(って誰に言ってんだ)。

さて、この本の構成としては「はじめに」の懺悔からはじまり、目次があり、全部で7つに章立てされている。それと、彼女自身が書いた「女編集者残酷物語」というコミックも収録されている。
それぞれの章は以下のようになっています。ページ数は普通に単行本の厚さなんですけど、紙が厚いのとページあたりの文字数が少ないく一人称で語られていくのと、所々に著者の内心のツッコミがあったりして、重い内容に反して笑いながらスムーズに読み進められる。いや、笑えないんですけどね。ちなみに、各章の章題はこんな感じ↓

1章:精神障害生活保護、自殺未遂
2章:ケースワーカーとの不和
3章:「お菓子屋さん」とクリニックのビジネス
4章:漫画の単行本をつくる仕事
5章:普通に働き、普通に生きる
6章:ケースワーカーに談判、そして
7章:人生にイエスと叫べ!
おわりに
特別収録 コミック「女編集者残酷物語」

まあでも、話自体が繋がっているので章わけしなくてもいいような気もする。21歳で自殺未遂をしてからクリニックのデイケアに通うようになったり、そのデイケアでほかの精神障害者と一緒にお菓子を売ったり、ボランティアとして漫画の単行本をつくる仕事を始めたり、と、文字ヅラだけだとうまくいっているような印象を受けなくもないが、ところがぎっちょんてれすくてん。
このクリニックがかなりの曲者で、この「お菓子屋さん」にしても患者の意思なんてほとんど介在しない(著者の視点のみの印象なので実際どうかはわかりませんが)し、ワーカーも仕事をしない(特に二人目のパーマさんのデリカシーのなさは罪でしょうもう)し。
個人的に一番衝撃的だったのは、クリニック(ていうかまあ医療機関全般そうなんだろうけど)と製薬会社との関係性。有り体に言えば癒着。精神科においては診断名が変わることはよくある、というのを精神科医の先生から聞いたことがあって、それはまあ精神疾患の診断名というのは病態に関してつけるものだし精神疾患自体が非常にスペクトルなものだから、そのときどきに合わせることはまあおかしくはないのだと。しかし、この本の中ではうつ病と診断されていた小林さんがある製薬会社の営業担当者がクリニックに出入りするようになってから統合失調症に変えられた、という話を書いていて、そういう立場の異なる当事者の話(医者と患者)を見比べると、果たして何が真実なのかわからなくなってくる。
しかし、ICD-10でもわざわざF2とF3でカテゴリ分けされているのに、そんなかんたんに横断するものなのだろうか。まあアメリカではピザが野菜として認められるくらい利権でガッチガチなのを考えると、属国(爆)である日本が追従しないはずもなく、というかどの国でもこういうことはあるので、小林さんの通っていたデイケアでは少なくとも利権がらみのことがあったと考えてもいいでしょう。
それと同様に驚いたのは、彼女が自殺を図ると、なぜかデイケアを追放されたこと。まあ外来は通えていたようですが、なぜデイケアを追放されたのかコレガワカラナイ。いや、言い分としては「自殺しないって約束したのに!裏切り行為よ!」ということらしいのだが、それをどうにかするのが医療機関や地域施設なのではないか。まさにソーシャルインクルージョン(笑)。
ていうか、社会的包摂っていう概念を体制側が体の良い民間への押し付けに使っているようにしか思えないんですよね。
ほかにもワーカーの職務怠慢や決めつけ。いや、私は割と本気で公務員(議員含む)を全員ロボットにしたほうがいいと思うんですよね。そうすりゃこんなこと起こりませんよ、多分。少なくとも金によって何かがないがしろにされるということはなくなるのではないか、と。や、ロボット(ていうかAIかしら)の論理回路をどう設計するのかとか、色々考え出すと細かい部分で指摘できそうではあるんですが。

しかし就職氷河期とはいえ月給12万で残業代社会保険なしのところに就職するというのはやはりいくらなんでも・・・小林さん自身はこのときの体験を肯定的に捉えてはいるのですが、しかし社会全体として考えたときに彼女のように低賃金でも働こうとする人がいる限りこういう会社は有り続けるんですよねきっと。
まあこれは自己肯定感のなさ(個人的な要素。といってもその価値観を形成するのは環境でもあるので、一概にいえないけれど)と環境管理型権力(環境要因)の合わせ技による社会の構造の完全に起因するものなので、何とも言えないのですが。完全にやりがい搾取なんですが、彼女自身が肯定的に捉えている、それ自体がほとんど社会の悪逆な構造とも言える。
私から言わせれば、こんなもん肯定したくはない。や、彼女の感じた達成感や労働努力自体はむしろ肯定されるべきなのですが、それによってこのような環境をのさばらせるのは言語道断なのだと思います。

やっぱり権力を持つとロクなことになりませんよ、ほんと。
生保引き下げ&国家公務員の給与引き上げ。生保受給のバッシングを煽るようなメディアの報道がある一方で生保で縛り付けようとするワーカー・医療従事者、かと思えば公務員がジャンパー着てバッシングとかね。
いい加減にしてほしいですね、ほんと


どうでもいいことですが雨宮処凛さんと同じ匂いがします、この方。

文章量が正義なのは小中学校の読書感想文まで

である。
とかく、私のような貧乏性な人間は本の値段と本の物理的なボリュームで購買の有無を判断しがちである。
もちろん、ページ数によって値段が変わってくるということは普通にあることだし、それ自体はことさら取り上げることでもないのかもしれない。それに、文字数が少ないとそれだけ表現の幅が狭まってしまうということはあるだろうから。特に公的な書類だったりするときには。
ただ、ふと思った。中学生の頃の夏休みの宿題で読書感想文が出されたときのことだ。
友人の一人が読書感想文の対象本として「エルマーのぼうけん」を挙げたのである。当時の私やほかの友人も「そりゃねーべ」「ダメでしょ」と野次を飛ばしていた。
クラスが違ったのでその後どうなったのか具体的には知らないのだけれど、ここで私が言いたいのは「なぜ当時の私たちは絵本を読書感想文の本として認められないと思ったのか」ということである。
もちろん、それは媒体的な違いもあるだろう。絵本は漫画ほどでないにしろ視覚的な側面を多分に含むものだし、いわゆる散文などに比べると相対的に文字の量が少ない。
しかし私は、どうも後者の部分がこの読書感想文という宿題においてしがらみになっているように思えるのである。
じゃあ、ゾロリはどうなる。あれは確かに絵本ではあるが、絵本に比べると文章の量も多い。それに、小学校のときはゾロリもありだったような気がする(うろ覚え)

要するに、文章の量という部分で価値判断が左右されすぎるきらいが(少なくとも自分の中では)あるということdes。もちろん、そうでないことだってたくさんあるし、文章量もあって内容も伴っているものだっていくつもある。
しかし、今回の本はその自分の価値観の誤謬に改めて疑義を呈してくれた本だった。

ジャッキー・フレミング 著/松田青子 訳:「問題だらけの女性たち(原題:THE TROUBLE WITH WOMEN)」です。

この本は言ってしまえば絵本のような形式になっていて、1頁ごとに絵があって、その絵に対する歴史的フェミニズム的な視点のアイロニカルな言葉が添えられている本なり。
例えば最初のページ(厳密には違うけれど)にはひげもじゃの紳士が虫眼鏡を使ってテーブルの上にある小さなものを覗き込む絵が印刷されており、絵の上に「かつてせかいには女性が存在していませんでした。だから歴史の授業で女性の偉人につて習わないのです。男性は存在し、その多くが転載でした。
と言葉が添えられている。
とまあ、こんな感じに一言二言あるいはもう少し長い文章もあったりはしますが、どれだけ長い文章でも1ページの文章を読むのに20秒もかかりません。
しかし、皮肉で満ちたその短い文章のそれぞれの中には女性の抑圧の歴史が刻み込まれています。
元々歴史は苦手な科目ではありましたが、しかしそうでなかったとしてもこの本の中に出てくる女性の中でわたしが知る名前はヴィクトリアくらいだったでしょう。
しかし、それに反してこの本の中に出てくる男性の歴史上の偉人はダーウィン、ルソー、ピカソ、カントなどどこかで名前を聞いたことのある人物ばかりです。もちろん、キュリーなどの女性の名前もあがりますが、「無知な私でさえも知っている偉人」が明らかに男性側に偏っているということを改めて認識させてくれるわけです。

この本は、しかし物悲しくもある。というのも、この本の中では黙殺されたあるいは語られる機会を剥奪された女性の名前がその行動・行為・功績とともに挙げられる。しかし、男性偉人に関しては特にその功績や行為について直接的に言及されることはない。つまるところ、これは男性偉人の名誉や功績を普遍化された自明の事実であることを認めているのである。それ自体が一種の皮肉にもなっているのだけれど、それに対して説明を付記しなければならない女性偉人の認識の不全を際立たせてもいる。この構造が、悲しい。少し、体を張る女芸人にも似ている。気がする。
そして、その功績が自明なのだから、わざわざ言及はせず、それゆえに功罪の罪をひたすら晒し上げるという体裁になっているのである。

かといって、肩肘張って読むような本ではない。むしろ、イラストとアイロニーに満ちた文章の可笑しさに笑えばいい。笑って、冷静になって、考える。サウスパークのようなものだ。あちらほどの爆発力やユーモアは期待してはいけないけれど、また別の視点を与えてくれるだろうから。

最後に、個人的に一番好きなページを載っけておきます。

f:id:optimusjazz:20180622123045j:plain


このダーウィンを見る彼女の顔が個人的にツボ。ここに至るまでに男性側の「なぜ女性は~なのだろう」という恐ろしいマッチポンプ男根主義な盲目さで、本気で言っているのであれば狂っているとしか形容のしようがない流れからのこのページだったために、普通に笑ってしまいました。

雨宮処凛 著:「女子」という呪い

なんか律儀に書籍名と著者の名前を記事のタイトルに持ってくるのってすごくつまらないなーと今更ながら思ったり。
しかしこんなブログでも読んでいる人がいるということを意識するようになると、多少なりとも気を遣うようになってしまうというのがワタクシ的にはすごくジレンマな部分だったりするのです。当初はただ思ったことを吐き出すだけのゲロリンオナニーブログでしかなかったので・・・。

金曜日に観てきた「犬ヶ島」の感想に先に着手しつつ、なんだかいまいちまとまらないので読書に逃げた結果、どうしてもこの本を読んでいて色々と思ったことがあったのでこちらを優先することにしたのですが、余計にまとまっていないような。
まあ書評じゃなく感想ではある(というエクスキューズ)ので、とっちらかっても和田のアキ子が歌うように笑って許してほしい

そんなわけで今回読んだ本は雨宮処凛さんの著した「「女子」という呪い」です。
この本を手にとった経緯は忘れてしまったのですが(ていうか、そもそも本を手にとった経緯とか必要なのかしら?)、この本自体は自分にとって価値のある一冊ではありました。
本に限らずわたしが何かに触れるときは、それが「新しい世界を見せてくれるか」どうかが価値の判断基準になっているので、好悪や世評などとは別に軸があったりする。だから嫌いなものであったりへっぽこなものであっても、それが自分の知らないものであれば価値のあるものになる。って、そんなこと誰でもそうかもしれないけど。

では、この本の何が私に「新しい世界を見せてくれ」たのかというと、それは本のタイトルにあるとおり社会に蔓延する「女子」の呪いだろう。とか書くと、なんだか自分の中でモヤモヤする部分があるのだけれど、とりあえずはそういうことにしておく。
雨宮処凛さんについてはまったく知らなかったのですが、どうもわたしが現在進行形で学んでいる分野で物書きをしているっぽい。というか、この本から察せられるこの人の経歴を考えると、この人自体もわたしの学んでいる領域にかなり関連してきていて、思いがけない拾い物をした気分になる。あるいはシンクロニシティ的というか。
また、中身をそこまで知らない状態でこの本を手にとった割に、日大タックル事件や安倍ゲート関連とも繋がってくる問題提起が図らずもこの本の中でされていて、そういう意味でもシンクロニシティ的ではありました。

さて、前置きが長くなりましたが本について書いていきましょう。
この本の構成としては大きく4部に分かれており、さらにいくつかの章立てがされています。

1:オッサン社会にもの申す
 紫式部の時代にもあった無知装いプレー問題とは?
 「男らしさ」という勘違い
 キレる女性議員、のんきな「ちょいワルジジ
 「男」と「女」を入れ替えてみる
 藤原紀香結婚会見の怪
 40代単身フリーランス(私)、入居審査に落ちる
 理想の結婚相手は「おしん」だとさ
 大震災で露呈した昭和のオッサン的価値観
 「ロボットジジイ」と非実在女性

2:女子たちのリアルな日常
 持つべきものは、看病し合える女友達
 「迷惑」マイレージを貯めて孤独死に備える
 アラフォー世代、おひとり女子のリアル
 「若い」って、面倒だった 愛と幸福とお金と身体、その他もろもろ
 女地獄における比較地獄
 必殺! 困った時のフランス人
 化粧する女、化粧する男

3:「呪い」とたたかう女たち
 AVで処女喪失したあの子の死
 メンヘラ双六を上がった女
 雨宮まみさんの訃報
 彼女がレズ風俗に行った理由
 若い「おじいさんとおばあさん」のような関係
 セーラー服歌人・鳥居との出会い

4:「女子」という呪いを解く方法
 世界の「女子」も呪いと闘っている

あとがき(?):なんだ、みんなおかしいと思ってたんだ


以上、上記4部(第4部は分量的に少なめ)にわかれているんですが、著者の経験談がすべての章に通底していて、あまり章ごとの区切りは感じられない作りになっていました。だからどうってこともないんですけど。
ちなみに、まえがき的に「すべての生きづらい女子たちへ」というのが本書の書き下ろしとして追加されています。どうやらコラムなんかを一冊にまとめた本らしいです。
あとは実際にあった事件や事例から男女を相対化、著者の書くところのミラーリングを行うことでいかに現代日本のシステムが病理に蝕まれているかということを、様々なところからデータや言葉を引用しつつも、主にエモーショナルに綴っています。なので、「そういう感情的なところが鼻につく」というタイプの人も一定数はいるだろうなぁ、という文体ではあるかもです。まあ、そうでなくともこの手のテーマは批判(というか、やっかみ?)されがちですからね。主に男性から。

ページとしては220くらいで文字も硬い文章でもないのでかなり読みやすいです。ただ、この本の前に読んでいた本が380ページで文字もやや小さめだったので、相対的にザクザク読み進められたというのもあるやも。

第1部を通してで述べられているのは、いかにこの社会の中に男性優位のシステム、あるいはミソジニーが根付いているかということ。セックスレス・介護・家事育児(から生じるイクメンという言葉が本質的に有している女性蔑視の視線)などのワードをキーにしていたり、勝手に値踏みしていたり・・・ともかく女子がいかに男性の振る舞いに憤りを感じているかが痛痒とともに伝わってくる。

この本の中では著者の体験や著者の友人知人などの身に起こったことなどを具体例にしているのですが、「男らしさ」という勘違いの章の「多くの女子を黙らせる一言」の項目で引き合いに出される、避妊しない自慢男の話はドン引き。
少なくとも、わたしの男友達の中で彼女から生理不順を聞かされた人たちはみんな不安に駆られていたぞ。まあ、不安に駆られるくらいならゴムつけろという話ではあるのですが、裏を返せばそれだけのおおごとであることを理解しているということでもあるのだと、この章の避妊しない自慢男の話やたまにニュースになる赤子を捨てた若いカップルの話などを見るにつけて思う。
ほかにも「GG」なる雑誌のことや、日本語のわからないアジア系の女性にトイレで妊娠検査薬の見方を尋ねられた話、72人の処女(イスラムだしソロモン72柱とかかってたりするのだろうか)の話とか、フェミニズムという視点を除いても純粋に面白い(とか書くと不謹慎だろうか)話が多い。

しかし、いくつか説得力に欠ける部分もある。たとえば「40代単身フリーランス~」の部分。まあ章のタイトルどおりのことが起こるわけですが、これは女性だからというよりもフリーランスだからという部分が強いのではないだろうか。もちろん、その裏には女性の賃金の低さという問題をはらんでいるのも事実ですが、ここで語られるのは女性云々というよりは主に貧困問題についてなので、あまり女子であることを押し出すのは逆に卑しい気はする。分けて考えろ、ということではなく、強調する部分を間違えると合意の捏造が生じてしまうから。

また、「大震災で露呈した~」の章について。下着のことに関しては「あぁーありそうだな」と頷いたり、衝立や女性が着替える歳の仕切りなどに関して、わたしはむしろ幼子を除いて完全に男女別になっているくらいだと思っていたので、そうでないことがむしろ驚きだった。確かに、避難民が体育館などで待機している映像はかなりそんな感じだったし。そのへんは特に問題なかったのだけれど、避難所で女性が炊事を担当させられた女性たちの点で、一つ疑問に思うことがあった。80ページで「1日3食を100人分つくり続け、リーダーに「疲れた」といったら「大変だな、それでは、かっぱえびせんですませよう」と言われた女性もいた。男性が交代するという発想がなかったのだ」という部分。
これ、女性たちが炊事をしている間は男性たちが何か外に出て何らかの土木作業などをしているのわけではないのだろうか。わたしは、てっきりそこで男女の肉体性によって仕事を振り分けているだけで、炊事以外の仕事を男性らがやっているのだと思っていたのだけど、そのへんは特に何も書かれていなかった。だから、少しバイアスが働いていないかという疑念が残る。

それと、1章「紫式部の~」では、女性側が無知を装うことで男性を立てて気を良くさせることを日本独自の女子の生きづらとして、批判している。その前に「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」という本を引用し、女性にいくつもの要求をしておきながら見えない枕詞として「男の後ろでな」がある(意訳)ことを指摘している。
社会に蔓延るその暗黙の了解には首肯するのですが、一つだけ誤りがある。まあ、誤りというよりは単に射程の問題でもあるのですが、ここには「外国はこんなに素晴らしいのに日本はなんてダメなんだ!」という偏見に立脚する前提があるようにも思える。
著者はこの暗黙の了解を日本独自のものとして扱っているのだけれど、実を言うと59年にゴフマンがアメリカで行ったドラマツルギー役割期待の調査において、アメリカの女子大生がデートの相手になりそうな男子学生を前にするとき、彼女らが持つ本来の知性・技能・意思をあえて低く見せていたという結果を報告している。
つまるところ、これは現代になって浮き彫りになった問題でもなければ日本独自の問題でもないんですよね。この調査自体はフェミニズム的な視点から見たわけではないのですが、しかし半世紀前に指摘されていたことを未だに改善できていない、ようやく問題提起できたというところなのがフェミ的に後進国な日本らしいというか。そういう意味では著者の書きかたでも明確な誤謬とはいえないのですが・・・。高度経済成長とか、あの辺のことも大きく絡んできてはいるのでしょうし、社会システム論とか引き合いに出すとわたしには手に負えなくなるのでここまでにしておきます。

それともう一つ、バカというか無知を装うという技術は、実は男性も行っていることであり、それを免罪符にしているということもある。という視点が含まれていたらなお良かったかなーと思う。とかいいつつ、これはどちらかというと人種の問題な上に英語の本なのでまともに読んだことすらないのだけど、確かwhite ignoranceだったっけか。


第2部と第3部は、第1部以上に個人的というか局所的な体験記だったり思いの色合いが強い。
「持つべきものは~」なんて性別関係なく、至極個人性な問題でしかないといえばそうだし。著者の言葉に従えば、この章はミラーリングしてもなんら問題はない。少なくとも字面上は。なので、女子の生きづらさというよりは厄介な友人問題でしかないので。ただ、著者はフェミニズムだけでなく社会福祉関連の問題も取り扱っているみたいなので、その流れから書いたのだろう。実際、そのあとの「「迷惑マイレージ」を~」の章では孤独死の問題と結びつけているし。
あとはまあ、過去の体験や回想や死者への思い出といった感じだろうか。風俗やAVなどの女児特有の問題を扱っていたり、東京というアーバンな街に対するコンプレックスとか、この辺は90年代当時を生きていた雨宮処凛さんの赤裸々な思いが曝されている。
こわれ者の祭典」とか面白そうなイベントの話なんかもあったし、ともかく私の知らない世界についてかなりたくさんあって、面白くはあった。
あと日本人の女性への若さ信仰とフランス人との違いとかね。
生物学的に見れば自分の情報を残す=子孫を残すことが知性存在(笑)としての人間である前に、生物としてのヒトの欲求ではあるはずなので、そういう意味では出産におけるリスクを減らせる「若さ」というのは重要なファクターであるとは思う。
ただ、この本で記される日本人男性の若さ信仰というのは、顔とかそういう表面的な若さへの要請であって、妊娠がどうとかという評価軸ではなさそうではある。
うーん、でもわたしは「正しく歳を重ねる」ことは素晴らしいことだと思うけど、若作りという行為も人間的で愛しいと思うけどね。うん、個人としじゃなくて人間のごうつくばりって意味で。書いてて思ったのだけど、折原臨也みたいで気持ち悪いなこの書き方。

第4部は韓国のフェミニズム運動やMeTooを用いて家父長制の社会体制への反旗を掲げ、世の女子を鼓舞するような文言が並ぶ。
最近は福祉関係で韓国や中国の話も出てくるし、特亜的にはとなりの国々の運動はやはり無視できないのだろう。

とりあえず最後まで読んで思ったのは、エロ漫画みたいなことをやるオジサンがそこらじゅうに溢れているということ。笑い事じゃないんですけど、笑ってしまうほどチンコに支配されているおじさんの話が何度かでてくるので。

読み物としては面白いし、世の女子の現状を知るための一冊としては手に取りやすいことは間違いない。反面、体系的に何かを知りたいといった重めの本ではないので、そこはまあ個人の裁量でしょうな。まあこのタイトルで体系的もクソもないのはわかることですが。


最後に個人的に「オジサン」について思うことがあったので書く。
ここに来ると伊藤の先見の明というか、表現者としての彼の筆致の饒舌さを振り返って再評価したくなる。雨宮処凛氏はこの本の中でオジサン=団塊世代の男という含蓄で書いている。それは間違いではないのだけれど、そこには物理的なちんこの有無で線引きしている節がある。最後の章で「権力を握る者」こそがハラスメント(ていうか普通に性犯罪なんだけど)を行うという旨の記述があるというのに、最終的に「オジサン」でまとめてしまうのは、まあ伊藤の筆力と比べるというのが酷であるとはわかっていても、ちょっと思ったことなので書いておこうと思う。
伊藤の述べる「オジサン」とは、その精神性を指している。以下引用。
認めたくないことだが、世界はおっさんによって動いているのだった。
何をいまさら、と言われるだろう。あるいは、女性だっているじゃないか、と言われるかもしれない。国会中継を3秒見ればそれくらいのことはわかりそうなもんだ。「生む機械」「健全な」発言の柳沢さん、あれについて女性の権利を云々、とか言葉尻捕らえてこのマスゴミ云々、とか右左いろいろ言い合ってはいるけれど、皆まずなによりあれがきわめて美しくない、という単純な事実を忘れているのではあるまいか。あれはきわめておっさん的発言であり、おっさん的思考なのだ。世の中には「おっさん」というきわめて美しくない、存在そのものが無様でいかんともしがたい生物が存在しているのであり、厄介なことに政治家になる人間というのは、多かれ少なかれおっさんを属性として持っている人間なのである。私に言わせれば、政治家になる女性もすべからくおっさんである。おばはん、ではない。あくまでおっさんなのである
。」

いやまあ、豊田議員のくだりを読むに、男性もといオジサンの精神性を内面化してしまったということを書いているので、単に陰茎の有無で語っているわけではもちろんないのですが、全体としては物理存在としてのオジサン批判に読めてしまう気がする。まー最近の神経科学分野でも肉体の重要性が説かれているので、肉体先行で語ること自体はむしろ現代的なのかもしれませんが。

そもそも、伊藤が指摘するまでもなくオッサン(本書ではオジサン)という存在が基本的には揶揄の言葉として日常的に使われているように、オジサンというのは醜悪な生き物である。思うに、ダンディとオジサンのボーダーというのは見た目以上にそういう精神性の部分が大きいのではないか。
日常の中にオッサンの生態を批判的に捉える言葉がるにもかかわらず、この世の中でパワーを握っているのはそのオッサンたちであるということの矛盾。女子に綺麗であることを求めるのであれば、男性諸兄はオジサンであることを恥ずべきではないだろうか。「俺、オッサンだから」と自虐的に口にしておきながらその実はオッサンであることをすでに分離不可能なまでに内面化しているがためにまったく気にかけていない。それが、このオッサンたちが優位な社会を作っているのではなかろうか。

以上は、本書に関する直接的な感想です。













P.S.
ここからはやっかみとか、直接この本に関すること以外で思ったことなので、読み飛ばしてもよかんべな文章。読み手への配慮は通常より皆無で、ほぼ内省と自問自答なので読む必要はないよ、という文章。

「付き合った男性が~」というワードを綴っている時点で、エクスキューズ的に「まぁ、それまでもまったくモテてなどいなかったのだが」とか書くのは卑怯千万だろう。というか、付き合ったことがある、という時点で「モテ」という言葉とかそのあとに否定の語句をつけるのは、真に恋人に類する存在ができたことのない憐憫者たちへの侮辱である。
自己卑下というのは、ある意味で「自分がこの世の最下層である」という驕りに基づいていることを私を含めた自己評価の低い人間はゆめゆめ忘れてはならないのである。
いや別に不幸自慢とかではなく、「上には上がある」という熟語を用いるのと同じように「下には下がいる」という言葉を使うべきなのではないかと思ふ。


それと、この本の中で「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」という漫画について触れられるのですが、実は私はこの漫画が嫌いだ。いや、嫌いとまではいかないかもしれないが、少なくとも苦手だ。ていうか、この手の漫画が。
この手の漫画、というのは、要するに「ありのままの姿見せるのよー(レリゴー)」しているだけの漫画だ。エッセイと銘打っている漫画であれば大丈夫(荒川弘のとか)なんだけれど、「さびしすぎて~」とかは苦手だ。多分、これがレポじゃなくてルポだったら多少は許せたのだろうけど、しかしそれがなぜなのか自分でもわからない。いや、一人称形式な時点でルポっちゃだめか。わからん。
これは前からある疑問なので、折角の機会なのでわからないなりに考えてみようと思う。
なぜ、私はこの手の「レリゴー」系が嫌いなのか。
考察した一つの考えとしては、それらの漫画は「漫画」という表現手法とは別の位相で評価されているからというもの。絵の上手さや下手さ、コマ割りとか、そういう「漫画としてどうこう」という以前の段階で「私は苦しいのです」という叫びをあげることで免罪符として機能し、すでに加点されてしまっているように思える。つまり、漫画で表現しているのにその手の漫画は漫画という表現とは別の部分で強固な評価軸があるのではないか。

映画界、特にアメリカのインディーズではマンブルコアという低予算ジャンルが一つ確立しているのだけど、こちらはむしろ低予算であるがゆえに工夫を凝らさなければならないために映画という表現において評価されているのとは対照的だ。
そこに何か溝のようなものを感じる。まあ、漫画は手軽ではありますからね、読む方は。だから、簡単に感動することに思考停止できるのかもしれない。感動ポルノ的、というか。
あるいは「切実に叫びつつ、結局は叫んだだけでフォークソングにしかなり得なかった」という、ある人の言葉をそのまま当てはめることもできるのかもしれない。

あとはまあ、自分の恥部を晒していることの下品さのようなものだろうか。つまり、これが漫画として描かれ市場に乗り経済システムの中に消費されることは、「「女子」という呪い」の中で語られたAVで処女喪失の彼女がロフトプラスワンで自分の身を切り売りしていたのと本質的に同じことのように思えるのだ。そこに主体か客体かの違いはあるのかもしれないけれど、システムに取り込まれている時点で客体だろうし、そう考えるとやはり同じでは・・・。
そこまでしてでも自分の苦しみを表現したい!そうしないと死んでしまう! それ自体はいい。だけど、わたしは自分の弱さや辛さをさらけ出すことに抵抗を感じている。
だってそれって、庇護欲を掻き立てる、いわば自分が不塾で何もできない存在であることを示しているだけじゃない。その生存戦略が成立してしまうことが気に入らないのだ。
学生時代、友人に「そういうキャラ」だからといってすべてを受け入れてもらえる人がいた。彼にはそこまで能力があったわけではない。ただ、何もしなくても人に好かれた。
けれどわたしは、道化になることでしか自分を表現する術を知らなくて、ただ弱いだけでいるだけでも受け入れられる彼が少し妬ましかった。自然とあだ名で呼ばれる彼が羨ましかった。わたしは苗字で呼ばれていた。なぜだろう。

わたしは、そんな恥ずかしいことはできない。そういう生き方を否定はしないし排他することもないけれど、絶対的に肯定できないし蔑んではいるし大嫌いだ。

どうして弱いことをさらけ出すだけで生存できてしまう人がいるのだろう。こっちは弱さを必死で取り繕って、ようやく生存できるというのに。多分、そういった感覚に近い。
しかし、そうなるとラップやブラックカルチャーはどうか。多分、それはマンブルコアと同じで、叫びを芸術の域にまで昇華しているからこの限りではないのだろう。

ただ叫ぶだけで評価されるというのなら、叫ぶにも値しない程度の瑣末な弱さの行き場はどこにあるというのか。


さらに言えば、さらけ出すことが是とされるこの寛容な社会の流れにも薄ら寒さを感じている。ソーシャル・インクルージョンはあくまで現実とし機能すればいいのであって、大衆芸術そのものを飲み込もうとしてはいないか。
世界はいつからそんなに優しくなったのだろうか。個人の体験を貨幣経済の市場に乗せて売買していることを優しさと捉えるのは難しいのだけど、苦しいことを苦しいというだけで価値を見出されるというのはやはり優しさというべきだろう。
「嫌なことは嫌だという」「ダメなものはダメだという」「正しくないものには正しくないと指摘する」。それは、社会レベルでは必要なことだと理解している。けれど、そんな潔癖でやさしい世界に不満を抱く自分もいる。
本来なら社会の流れに逆らうべきものが社会に包摂されていく気持ち悪さに似ている。ディストピアっぽいのだ。

ただ、不思議となぜ活字はこうならない。文字に比べて絵は演技性が高いからかもしれない。よくわからない、自分でも何を書いているのか。

なんてを考えていると、「シン・ゴジラ」で東京が火の海になっていく様子に感動のあまり涙したのも頷ける。怪獣(に限らないけど)が好きなのは、善悪とか倫理とか正義とか、そういうものを超越した絶対的な存在がそういうのを蹂躙してくれるからなのかもしれない。



それと、この本を読んでいて思ったのは、やっぱり自分には「壊れたい願望」があるのだということ。しかし、わたしには安心安全な設計のほどこされたブレーキが正常に機能しているがために壊れることができない。ていうか、普通に考えれば壊れることは良くないことだ。それこそ、この本に出てくる名も無き女子たちの中には壊れたまま死んでいってしまった人の話もあるわけで、本当に壊れかけた・壊れた人たちの前ではそんなことは口にできない。けれど、壊れることでその立場を得られるのであれば、その能力をその才能を獲得できるのであれば、わたしは壊れてみたい、と思う。
再生することができた雨宮処凛や鳥居やメンヘラ双六を上がった者たちのように。

なんて、ないものねだりをしてみるのだった。